橋本治の後期雑文を読む6

『新潮45』2012年4月号より特集女のひとり勝ち「「女に生まれてよかった」と思える9の理由」
「国民生活白書」の調査とかいうようなもので、「女」だと幸福の実感度が高くなるのだという。そんなの当たり前じゃんと、私は思う。
1.女は男とではなく、「自分の結婚」と結婚する
今からもう四十年ばかり前からの話だが、結婚式場の宣伝写真は、幸せそうな新婦一人だけというのが主流になってしまっている。当時はただ「すげェなァ」と感嘆したが、やがて「女は男と結婚するのではなく、誰かと結婚するのでもなく、"自分の結婚"と結婚するのだな」と納得してしまった。
2.小太りの女が七輪を持っていても、男は平気で金を渡してしまう
よく考えなくても分かるが、「小太りの女が男にもててなぜ悪い」で、「小太りの女に男を騙す能力がなぜないと思うか」である。
「男の思い込みを超えたところに"女"は存在している」ということを明確にした画期的な事件で、すべての女が自分を美女だと主張出来る前例のない時代の到来を告げるものなのである。つまり、すべての女は野放しになった----なっている、である。
3.「私がなにしたって言うのよ!」の一言で、女はすべてを免責に出来る
責任を追及される女が「私がなにしたって言うのよ!」と叫ぶと、追求する男は及び腰になる。いざとなると、「女は弱いものだから、非道な責めを負わせてはならない」という理屈が、女の中で作動するらしい。
4.「男尊女卑」のハンディがなければ、男は女に勝てない
男が女に対して優位に立てていたのは「男尊女卑」というハンディを女に与えていたからで、これがなくなってしまえば、男などどれほどのものでもない。
5.日本の国家の基礎を確固とさせたのは女だ
明治維新まで続いた律令国家の枠組を作ったのは、女性の天皇で、孫の文武天皇に譲位をして最初の上皇になった、持統天皇である。
6.女を鎖に繋ぐのは大変だ
院政の時代になって天皇家内での「父と子の問題」が浮上し、男性原理が模索され、武力衝突から武士の時代へ至り、その末にやっと「男尊女卑」が確立されるが、確立されればすぐに女性解放の近代がやって来る。日本の男尊女卑は、そうそう古くも確かなものでもない。
7.最強の与謝野晶子
男は女に勝てないということを論理的に示すのが、与謝野晶子のこの歌---「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」である。近代文学で「我が身」を語る男は、自然主義でも夏目漱石でもなんでも、幸福なところへ行けない。そんなものとは関係なく、一切を弾き飛ばしてしまうのが、与謝野晶子のこの歌である。
この歌には、「男のくせに道も説けないなんて最低ね」というフレーズだって隠されているはずだから。
8.草食系男子は今に始まったわけじゃない
草食系男子と言われるものがなぜに生まれてしまったのかと言えば、それは日本的な恋の美意識ゆえである。歌舞伎や人形浄瑠璃という江戸時代のドラマで、「恋愛は美男のするもの、恋愛は女から仕掛けるもの、美男とは女から恋を仕掛けられるもの」と決まってしまった。その結果、「男は女から惚れられるようにならなければならない。分際もわきまえず、相手の迷惑も考えず恋を打ち明ける男は悪だ」ということになってしまった。そしてそのようなソフィスティケイションが確立されてしまった。
9.「女のほうがいい」と思われているから、女装やオネエ系タレントがブームになる
女装やオネエ系タレントのブームというのは、「ゲイの容認」なんかではなくて、「すべてが女寄りになっちゃえばいいのよ」という、女系幸福度の拡大に伴う浸蝕現象だろうと思う。
10.おまけ
我ながら下らないことばかり並べたなと思うが、重要なのは「女の幸福度」だけが一人歩きして、それが女にとって幸福なのかどうかはよく分からないということである。「女の方が男より幸福を実感出来る」ということになったら、女同士で不毛な「私の方が幸福よ」競争が起きるだけだ。

『芸術新潮』2012年6月号より特集古事記日本の原風景を求めて内エッセイ私と古事記「あるがままに受け入れると」
私が『古事記』の現代語訳をしたのは四十代の前半で、児童向けの上巻だけに限ったものではありましたが、二週間ほどで書き上げてしまいました。
『古事記』を相手にするとなると、どうしてもめんどくさいことを考えざるをえなくなりますが、なんだか分からないことが書いてあるものを前にしてああだ、こうだを考えていても仕方がありません。書かれていることをそのまんま子供達に伝えるしかないなと思ってその通りにしたら、意外とすんなり行きました。
『古事記』の冒頭、国土を産み終えたイザナギ、イザナミの二神が最初に産む神が「大きな事をしおおせる神」で、次が「土台石の神」「丈夫な住居の神」「立派な戸の神」というような感じで続いて行きます。日本の創世神話は、まず「丈夫な自分の家」を作るところから始まるんですね。
日本の創世神話は皇室の祖先神を生み出すだけで、人間を創るということをしません。初めから存在している人間の上に、統治者として皇室の祖先神が降臨して来るので、あり方として普通の日本人は、みんな「居候」です。普通の日本人は存外勝手に生きているのです。日本人の世界観の始まりを思うと、「まず国土があって、そこに自分達の住む丈夫な家がある」です。自分のいるべき基盤があって、次にその周りに海やら風やらの「自然」がある----そのような形で神々が産み出されるので、「本当に日本人だな。本当に日本人は、まず自分達のあり方が確保されてから、周囲の確認に入るんだなァ」と思います。

『キネマ旬報』2012年8月1日号より特集:印象の深い脇役「哀しい善人汐路章」
「印象の深い脇役」と言われて、汐路章の顔と名前がフッと浮かびました。それ以前、日本映画にはいくらでも「名脇役」と言われる人達がいたのに、そういう人が頭に浮かばず汐路章と思ったのは、初めて東映のヤクザ映画を見たときの印象が強かったからだろう。
ヤクザ映画になってしまえば、主役の周りを囲むのがヤクザばかりで、かつてのチャンバラ映画の脇役達とは違います。まだ大部屋制度は健在のはずなのに、その顔がかつてとは全然違っている。加藤泰映画の汐路章や任田順好(沢淑子)は、「こんな俳優どこから出て来たんだろう?」と言いたくなるような独特さを持っている。映画の質が変わって、そこで要求される演技の質も変わったんだなと思いました。不思議な繊細さとリアリティを持っている。
汐路章は、言ってみれば「悪人顔」だが、悪党が似合わない---それをやると単純になりすぎる。非道に立ち会わされる善なるヤクザの方がいい。「悲しいのは悪い奴のせいじゃない。悪い奴に出会ってしまう俺の業のせいだ」というような、宿命論的悲劇を背負っている善人こそが、汐路章だと思いますね。

つづく



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