幸せとは。
子供の頃からシンデレラや白雪姫の絵本の結末の「いつまでも王子様と幸せに暮らしました」という部分がどうにも腑に落ちなかった。
一生幸せに暮らすってどういうことなのかと。
そんな漠然とした表現ってあるんだろうかと。
話として面白いのは、かぼちゃの馬車に変身する場面や7人の小人の暮らしぶりの箇所であって王子様とのくだりではないし…だいいち王子様が、王子という立場と優しそうな様子以外に、何がどう「素敵」なのか分からない。
そんな私だけれど、ホテルだけは別で、おとぎ話に出てきそうな豪華なホテルや歴史ある重厚なホテル、外資系の夢のようなホテルのラウンジでお茶をしたり、バーで夜景を見ながら時間を過ごすことにある時期まではとても憧れて(千と千尋の神隠しに出てきそうな温泉旅館は今も好き)、何かあると「待ち合わせはあのホテルのロビーで」「夕食後はあのホテルのバーへ」と、むやみやたらに言うフシがあった。
けれど、どんな素敵なホテルでも実際に泊まってみたら、(私の経験した限り)翌朝チェックアウトをしようと部屋を一歩出た途端、他の部屋の清掃が始まっていて、掃除道具やよそのお客さんのリネンやゴミ類を目にすることになり、廊下へ一歩出た時に夢から醒めてしまう。
だから、というのもアレだけど、夢のような世界を前にすると、つい身構えてしまう。お話の世界でも同じで、どうせ「ありえない」ハッピーエンドなら、華やかなお城や美しいお姫様がどうのという話より、断然「笠地蔵」がいい。親切をした結果良いことが起こる、という因果応報的な流れより、お地蔵様が並んでいる絵面や、どっさりギフトが届くという即物的な「お得感」や、お地蔵様が歩く怪奇現象、サンタクロースが枕元に何かを置いてくれるサプライズに似た喜びを感じられるのが自分的にはとても好みだ。
昔、実家に父のデザインスタジオがあり、最盛期は7人くらい、最後の方は1〜2人お弟子さんが通ってきていて(初期には住み込みの方も)、私が幼かった頃、忙しい親に構ってもらえず、きょうだいも年が離れていて一人で過ごすことが多かったせいか、お弟子さんたちが誕生日などに手作りのカードを部屋のドアの前にそっと置いてくれることがあって、その優しさにも、何より手渡しでなくドア越しにそっと置いてくれる笠地蔵感が嬉しくて、親からあまり何かをもらった記憶はないのだけれど、そのお弟子さんからのドア越しギフトの思い出は強く、私にとっての「幸せ」の原点となっている。
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という前置きで書き始めた今回、この前近くの古書店で見つけた『日本の民話 15 岡山・出雲編』(1974 株式会社 未来社)のことを紹介したくて(現在書店で購入できる新版では岡山、出雲に分かれているようです)。
当初、買うつもりもなくなんとなく店の前でパラパラめくると、こんなお話が目に入ってきた(端折りながら一部引用)。
やむなく遠方の県まで探してようやく縁談はまとまり、賑やかな嫁入り道中で送られいくつもの山坂を越えて花嫁さんになることができたのですが…
花嫁が日ごとにげっそり弱っていく姿を見て、姑が「どっか悪いのかい」とたずねると、「うちは、おならを我慢せずに出さずにはいられない癖があって、1日にいっぺん出すとそれですっとします」と嫁。
姑が「そんなことか」と笑って、「このうちはもうお前のうちも同じ。遠慮なんかせず、さ、安心してお出し」と言うと、嫁は座り直して「さっそくそれじゃ」と屁を一発。
結局、姑と息子は相談して、花嫁を里に帰すことに。
すっかりしょげつつ女が風呂敷一つ持って、とぼとぼ里へ向かって山を超えていると広い梨畑があり、そこで一息ついていると、不意に殿様の行列がやってきた。
「見事な梨の実よのう。みなの者、この梨の実を一度に落とす者がおったら、ほうびに百両とらせるぞ」
殿様の声に家来たちは困り顔で梨の木を見つめるばかりで、誰も試みようとしない。その時、「それじゃ、うちが落としてみせましょう」と、離縁されて里へ帰る途中の女が木の真下に進むと梨の木めがけて一発ぶっ放した。
私は立ち読み時点で、この話の「殿様の一行がやってきた」という部分までで「面白そうだな」と本を閉じてレジへ向かった。
冒頭の「娘は姫さまにしたてたいほど美しい」という情報から、てっきり殿様に出会って最後、見初められてお城へ…めでたしめでたしかと思いきや、帰宅して最後まで読むと、このような結末だったので驚いた。
並外れた特技が百両分の「仕事」になり、嫁に行かずとも幸せに生きられることを本人も読んだ人も知る意味で爽快なハッピーエンドだ。
もう一話、シンデレラストーリー的だけどそうじゃない結末の話を。
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娘は母を一人残して家を出るのが辛かったので、町の面屋に行って、母に似せた顔のお面を作り、お針箱へ入れて奉公先に持参した。長者の家で働きながら、辛い時苦しい時に自分の部屋に入って針箱を開け、面を取り出して母に話しかけるように過ごした。
ところが長者の下男にいたずら者がいて、娘が部屋で何かぶつぶつ言っているのを盗み見て「何をしているんだろう」と、ある時こっそり針箱を開けて女の面を見つけ、「何だつまらん、ひとつ驚かせてやろう」と、町へ使いに出たついでに鬼の面を買ってきて、こっそり針箱の中の女の面と取り替えた。
いつものように仕事を終えて自分の部屋へ戻った娘は引き出しを開けてあっと驚く。「お母さんの面がこんな怖いお面に変わっているのは、もしや、悪い知らせではないか。お母さんの身の上に何か変わったことでもあったら…」と、じっとしておられず長者に、ちょっと家へ帰してもらうように願い出た。
「こんな夜更けに出なくても、明日の朝にしたらどげなか」と長者がいうのも聞かずに飛び出した娘。峠道を急ぎ足で登る頃、闇の中に明かりがちらついており、近づくと、ひげもじゃの男たちが5、6人集まって博打をしている。「おい、そこの女、どこへ行くつもりだ。今夜はここで火の番をするのだ」と、男らは娘を焚き火のところへ突き出した。
娘は「母が気がかりなので家に帰りたい」と告げるが聞く耳を持たず許されない。怖い目でじろじろ見ていやらしいことを言う男たちから逃げられぬと思った娘は、いやいやながら火の番をすることに。
火のそばであまりに顔がほてるので、風呂敷から鬼の面を出して熱さしのぎに顔にあてると、一人の男がふと娘の方を見て「あっ」と声を上げた。他の男たちも立ち上がり「やさしい娘だと思ったのは、ものすごい顔の鬼だったのだ」と驚き、わめいて闇の中を我れ先にと転がるように逃げ去った。
一人取り残された娘はびっくりしつつ、あたりに散らばった(博打の)金を拾い集めて、男らが戻ってこぬように鬼の面をつけたまま、火をいっそう燃やして夜明けを待ち、お金とお面を風呂敷に包んで我が家へ急いだ。
家に駆け込むと母は驚き、娘は娘で母の無事に安堵し、その後事情を全て話してお役人のところへ峠の金を届け出ると、役人は母思いの娘に心を打たれ「その金はその方に下げ渡すぞ」と、届けたお金をそっくり渡された。
読み始めた時は、長者に目をつけられてセクハラ的なことに巻き込まれるのかと思い、最後の方では役人に評価されて何かの職に登用されるのかと思いきや、否。結構なお金をゲットして帰宅して母と暮らした、というシンプルなハッピーエンドだ。シンデレラや白雪姫などに冒頭で少し触れたので対比としてこの二作を選んだのだけど、この本に収められた民話は、今から約50年以上前、地元の人が子供時代におばあさんから聞いた話を集めて再話されたものだそうで、
と、民話集のために各地で採集・再話した岡山の稲田さんが「はしがき」で書いておられて、私が昔話に惹かれるのも、きっと「昔の人にも色々苦労があって、今は今の苦労があって、時代は違っても物語に勇気付けられるのはきっと今も昔も同じなんだろうな」と思うからだろう。
他にも、こんな冒頭のお話が。
いやぁ、何か勇気出るなぁ。将来の自分ではないか、これは。
この炭焼きの話は、男性版シンデレラストーリーなのだけれど、最後の一文が、
幸せかどうか、相手を好きかどうかなどは一切触れていない(笑)
よし、わたしも今後どんな状況でも堂々と年をとって正直に生きていこう、という気になるではないか。話そのものが好きというより、大昔の人もそんなことあったんだよ、という話を昔の人が語りついできたという「めぐる」感じ、お寺や神社にお参りする時もおみくじを引く時も同じで、神様仏様に何がどうというより、お告げの内容そのものより「昔の人もこうして手を合わせたのかなぁ、こんなの引いて一喜一憂したのかなぁ」という、脳内輪廻体験というか、そういうのが好きです。
幸せとは。
この間、ちょっと用があって出先で泊まり(夢のようなホテルに泊まるも、翌朝は例によって掃除の様子を目撃)、気を取り直してホテル近くのスコーンと紅茶の人気店へモーニングを食べに行ったら、表にはシナモントーストセット500円、と看板が出ていたのにテーブルに出されたのは「ランチメニュー」。同じメニューなのに1000円近くになっていた。斜め前の席では二人連れがモーニングを食べておられるのだけどな、と思って時計を見たら、11時を1分過ぎていた…
幸せとは、モーニングにギリギリ間に合うことだな、それしかないなと痛感しました。それ以外の、世間や他人がどうこう設定するような幸せなんて、どうでもいいじゃないか。
最後に、ヘッダー画像の「小さな幸せ」。気晴らしに描きました。
あ あったかい靴下
い イチョウの絨毯
う 後ろ前に着ても平気なセーター
え 永遠に聴き飽きないお気に入りの曲
お 終わりまで読んですぐに読み返したくなる本
か 噛んだらサクッ、中はふわっもちっ、のパン