【掌編】コーヒーを飲める頃に
引越し祝いは傘だった。
初めてのひとり暮らしで、すべてに浮かれていた。「引越し祝いを持っていくよ」という言葉にも、必要以上に浮かれてしまったかもしれない。わざわざ家の住所を聞いて、予定を合わせて、届けてくれるというのだから。
渡された包みは想像よりも小さかったけれど、充分に大きいと思えた。そして「なんだろう」と思えたのは一瞬で、すぐに傘だとわかった。
「傘?」
「そ、折りたたみ。持ってないでしょ?」
「持ってないけど……」
「いま、引越し祝いとしてはどーなの?って思ったでしょ」
そう言われると、「ウン」と頷くしかなかった。
「必要なものはきっと、自分で買ってゆくと思うよ。自分で稼いだお金で、自分で選んだり手放したりを繰り返してゆくと思う。
これからたくさんのことが待っていて、東京に来たことを後悔するかもしれないけれど、帰りたいとも思えなくて、どこへ逃げたらいいかわからなくなるときもある」
「それって体験談?」と尋ねたら、「年長者のいうことは黙ってお聞き!」と手を叩かれた。ちょっとしか変わらないくせに。
「できるだけでいいから、カバンに傘を入れなさい。傘があれば、雨のときに立ち止まることができる。そしてそれが、どこかへ逃げ出す強さになる」
「ぜんぜんピンと来ないや」
「うん、今はそれでいい」
ミルクも砂糖も入れないコーヒーを飲みながら、彼女は頷いた。
ちなみにこれも引越し祝いで、お気に入りのインスタントコーヒーだという。マグカップが見つからないので、お椀に淹れた。
「まあでも……何かがうまくいかなくなったときは、傘を入れたカバンを持つといい。入れっぱなしでいいよ。天気予報を見るのは面倒だから」
そのための折り畳み傘だよ、と彼女はなぜか自信満々だった。
甘くないコーヒーの匂いと、その表情は、今でも覚えている。
東京は、雨が多い。と思うまで、それほど時間はかからなかった。
実際のところは雨が多いのではなく、車移動が主だった地元と比べると、傘を使う機会が圧倒的に増えた。今までは、後部座席に積んだ傘だってわざわざ開いたりせず、玄関まで走ったり、あるいは駐車場までダッシュしていたのに、東京ではそうもいかない。ふたつ隣駅の職場まで電車に乗って、降りたら雨だった。ということも少なくない。帰りに降られるのならまだしも、出勤前にずぶ濡れになってしまうのは困ってしまう。というときに、折り畳み傘にはずいぶん助けてもらった。
「あれ、カトーさん?」
仕事終わり、この日もやっぱり急な雨で、カバンの中から折り畳み傘を引っ張り出す。人影があるなと思って見つめた出入り口の小さなドアの下、途方に暮れていたのはカトーさんだった。
カトーさんは「オツカレサマ」と小さく微笑んだ。
「なに、傘ないの? ちっさいけど、駅まで入ってく?」
言葉通り、小さな折り畳み傘をぴょこぴょこと横に振りながら尋ねる。
ふたりで入ったら完全に濡れるだろうけど、ないよりは全然いい。ひとりがびしゃびしゃになるよりも、それはずっと良いことだと思えた。
「う〜〜〜、小さい傘に入るのは申し訳ない。と言って断るべきかも知れないけど。……正直、助かる」
「いいでしょう。助けます」
こちらは笑って言ったのに、カトーさんはなんだか泣きそうな顔をしていた。
小さな傘に身を寄せ合うと、なんだか体以外の何かも近づいたような気がする。心、というような言葉だと少し違う。空間が。混ざり合うような。
「今日ね」と呟いたカトーさんの横顔は、今まで見たことのない色をしていた。弱々しさ、というほどは弱くもなく、情けなさ、というほど情けない。それは、諦めや自嘲ようなものが滲んでいたように見えた。
「いつも間違えないとこで間違えちゃったり、電話ガチャ切りされたり、急いでいるのにコピー機詰まらせちゃったりしてさ、ぜんぜんうまくいかなくって。
で、こんな日に限って傘を忘れちゃったわけよ……」
何て答えていいかわからず、「オツカレサマ」と呟いた。
「踏んだり蹴ったりを繰り返すと、世界の終わりみたいな気持ちになるのね……」
カトーさんは、小さな傘から遠くの空を睨んだ。どこまでも暗く、鈍い雨の空を。
「何かがうまくいかなくなったら傘を持ちなさい」
「え?」
すうっと、懐かしい言葉が浮き上がる。それは考える間もなく、カトーさんの元へとこぼれ落ちていった。
「最初に、折り畳み傘をくれた人が、そんなことを言っていた気がする。東京に越してきたときに傘をくれた人」
懐かしさと恥ずかしさで、ちょっと湿っぽくなった空気を吹き飛ばすみたいに笑った。「東京って、雨が多いよね」
「それは、すごく素敵な贈り物だね」
カトーさんは、神妙に頷いた。
「傘を持ち歩けば、傘を忘れた間抜けなわたしにならなくていいんだ……」
「誰だって、傘くらい忘れると思うけどね」
「でも、忘れちゃいけないときがあるじゃん……今日みたいに。もうこれ以上落ち込みたくないとき」
霧雨から次第に勢いを増した雨は、今では大きな粒を叩きつけてくる。頭が濡れていないだけで、他はびしゃびしゃだった。もはや、傘にどれほどの意味があるのかわからない。
「ほんとに助かったよ、ありがとう」
気がつけば駅で、雨に濡れた傘をパタパタと揺らしがら「どういたしまして」と答えた。
「もうさ、あれもこれもうまくいかなくて、仕事やめてやろーって思ってたんだ」
「えっ、そんなに悩んでた?」
「それなりに悩んでた! でも、明日も頑張ろって、ちょっと思えた」
ありがとね、じゃあまた明日、とカトーさんは振り返らずに改札へと吸い込まれていった。
そういえば、「今日に限って傘を忘れた」という記憶がほとんどない、ということにようやく気がついた。折り畳み傘を持っていたのだから当然なのだけれど、その当然を何年も前の引越しのときに贈られていた。ということに、ようやく気がついた。
どれだけ悲しくても、踏んだり蹴ったりでも、雨から守られること。それが、心のいくつかの決壊を防いでくれた。というのは言い過ぎだろうか。
これからはきっと、大切な人には傘を贈ろう。
「天気予報を見るのは面倒だから」これが彼女の本音だとは思うけれど。
雨とそれ以外の幾つかのものから守ってもらいたい。そんな夜はこれからもきっとあるはずだ。そして、ときには何かや誰かに守ってもらったって、いいのだと思う。
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