コーヒーの言い訳
漫画「真金の錬金術師」を読み返している。
実家にいた頃、幼馴染の家のガンガンでリアタイしていた漫画なのだけれど、上京と共に離脱してしまった。
読んでみたら、10巻くらいまでの内容は記憶していた。そして現在、16巻。約20年のときを経て「えっ? そうだったの?」と知ることもある。
人生がもしふたつあって、ハガレンを「読んだことのある人生」と「読んだことのない人生」があるならば、絶対に前者がいい……いつか必ず読みたいと思っていた漫画を快く貸してくれた友人には感謝しかない。
15歳、野心と自信しかないわたしは、主人公エドワード・エルリックと同年代だったわけだけれど、ずいぶん時間が経って、ロイ・マスタング大佐(初出時に29歳)を、うんと追い越してしまった。
若い頃に読んでいれば違う感動があったとも思うし、きっと同じところで泣く気もする。
いろいろな言葉で、心臓を優しく突かれたけれど、今日はノックス先生のシーンがたまらなかった。
前後関係は省略するけれど、ずいぶん前に別れた奥さんと息子さんが、ノックス先生の部屋を訪ねにきた。大きくなった息子は、ノックス先生と同じように、医者になりたいという。
そんな息子の決意を見た、ノックス先生は部屋に「上がれよ」と声をかける。
今までしてきたこととか、これからの話をしようとか、あるいは「もう少し顔を見せてくれ」ではなくて、そんなにストレートな表現はできないし、思い浮かばない、もうどうしようもないオッサンが吐き出すように告げた「コーヒーでも飲んでってくれ」というのは、たいそう染みる。染み渡る。
コーヒーというのは元来、優しい飲み物なのだ。
わたしは自分自身のガソリンみたいにコーヒーを飲むけれど、誰かに淹れるときは違う。
コーヒーの豆を挽いても挽かなくても、インスタントでも構わない。
わたしはいまも、オソノさんのコーヒーに憧れている。魔女の宅急便の、キキに淹れているインスタントコーヒーは、世界でいちばん優しい。
そういうときのコーヒーは、子猫のミルクみたいな暖かさがある。
むかし、「コーヒーを淹れて待っているね」みたいな歌詞を書いたことがあった気がする。ハタチくらいのときで、ペーパードリップを覚えたばかりだった。
何でそんな歌詞を書いたか覚えていないけれど、今ならわかる。というか、今ならこんな意味であって欲しいと願う。話せなくてもいいから、顔が見える距離にいて欲しい、と。
今でも友達が弱っていると「コーヒーを届けに行くよ」と言ったりする。
自分が弱っていると、友達のお店にコーヒーを飲みに行ったりする。
「ちょっとコーヒーでも」と、うまく話せないときの、何かの言い訳みたいに。そして少し、立ち止まる。そしてまた、歩き出す。たったそれだけの刹那に、心臓を揺さぶれられた。
明日も誰かが、優しい言い訳のように「コーヒーでも飲もう」と選択してくれていたらいい。今年も冬も、各々暖かく過ぎてゆきますように。