断言する! 村上春樹はノーベル賞を獲れない
2016年11月8日(火)〜18日(金)(日本着は11月19日(土))までイギリスに行ってきました。
この滞在は、10日というとても短い期間だったでアートギャラリーやミュージアムの企画展示をゆっくり観る時間がとれず。。。
せっかく世界のいろんなものが集まっているのに、なかなかに残念なことです。
でも、ロンドン滞在最終日、飛行機のオンラインチェックインのおかげもあり(空港到着の時間が1時間以上短縮できる!)、やっとやっと行けました。それは、
ヴィクトリア&アルバート・ミュージアム/Victoria and Albert Museumで開催されていた
「You Say You Want a Revolution? Records and Rebels 1966-1970」(2016年9月10日(土)~2017年2月26日(日)。あと少しです!)。
この企画展、日本語を使ってぴたっと短い言葉に当てはめづらい。
1966〜1970年のポップミュージックやファッションなどのユースカルチャーを紹介したもので、その底辺に流れているのはRevolution(革命)であり、そこにはいつもrecords(音楽)が流れていて、それを担っていたのはrabels(反逆者)たちってこと。
非常に示唆的なのが、サブタイトルに“How have the finished and unfinished revolutions of the late 1960s changed the way we live today and think about the future? ”とあること。
訳すと“1960年代後半のさまざまな革命(終わってしまったもの、続いているもの含め)はいかに今日の我々の生活を変え、それが未来にどうつながるのか?”といったところでしょうか。
ここで、革命について、終わってしまったもの、続いているものとあるのが肝だなぁと思ったのです。
結果の是非はともかく、Brexit/イギリスのEU離脱、アメリカ合衆国のトランプ政権の誕生もまさにこの革命に含まれると、個人的には思っています。
(日本での報道の大半が、イギリスのEU離脱 = 悪、アメリカ合衆国のトランプ政権 = 悪という大前提で、そればかりに焦点あてて、あれこれ言っていて、でも結果は出たわけで、であれば、どうしてそうなったのか、これからどうなるのか/どう対応していくのかを検証する方がずっとマトモだと思うのですが。。。
とにかく、イギリスのEU離脱 = 悪、アメリカ合衆国のトランプ政権 = 悪を声高々に、あたかもそれが正論のように言っている風潮には心底うんざり!)
そして、イギリスをはじめヨーロッパでは日常的な交通公共機関のストや、授業料値上げに対する学生デモや、これらのことも、日常の小さな革命だと思っています。
革命が成功する/しないはおいておいて、まずは声を上げる。
その繰り返しが歴史となり、その上で現代の欧米が成立していることを、この企画展ではひしひしと感じざるを得なかったのです。
この企画展を見ながら、確信したのは、
“村上春樹はノーベル賞を獲れない”
ってことです。
(日本社会の、いちいちノーベル賞でぎゃあぎゃあ言うのもうざいし、日本人受賞者を不必要なまでに取り上げるのもうざいし、そもそもノーベル賞に限らず、こういう白人社会の権威と呼ばれるものに無条件にへこへこする姿勢が嫌いだ!)
私は1969年生まれなので、この当時の日本にも革命吹き荒れた時代は体験していないし、記憶にもないのですが、日本での革命は革命とならず、結果、無力化と虚無感を植え付け、その空気感のまま今まできているんだ、ってことを否が応でも痛感!
で、ノーベル文学賞って、革命側、実際に革命に身をおくかどうかはおいておいて、どうして革命が起こったか、とか、そこでは何があったのか、とかを、つまり立ち位置はどうあれ、ともかく現場に向かう視点を持っている、切り取るってことが、イコール、社会へのまなざしと捉えられていて、そこに価値を見出しているように思えるのです。(実際のところ、革命どっぷりはNGでしょうし)
で、一方の村上春樹。
私はあまり得意でなく、特に最近の作品は読んでいないのですが、一貫して底辺に感じるのは、
もがいてももがいても、もはやもがくことすら諦めてしまったかのような、自分を取り囲む世界をすっぽり覆ってしまうほどの
“虚無感”
なんですよね〜。
そこには、世の中はこんなもんだから、という諦念。結果、自分のごくごく手の届く範囲、というか。
そこに革命は入ってこない。遠くで革命、革命と声を上げている人がいるなぁ、でも自分には関係ないから、という遠くから見ている視点。
いや、その視点から大きな社会へつながるってことはあるんですよ。
でも、姿勢としては、社会というものに距離をおいている印象。
(なので、なぜ彼が世界で読まれているかというと、社会のなかで疲れちゃってる、なんとなくもやもやしているものを抱えている人がエリアや人種などを超えて多くって、彼らが村上春樹の作品世界に自分を見出し、共感するという構図なんだろうなぁ)
となると、ノーベル賞と相性がいいわけがない。
そう、傍観者には賞はくれてやらない、んです。
あれこれ言われていますが、実のところ、ものすごくシンプルな、そういうことなんじゃないかな、とぼんやり思っていたことが確信に変わった次第。
なので、もし彼がノーベル賞を獲る可能性が出てくるとしたら、無力化とか虚無感をぶち壊す“何か”、それはおそらく理性とか感情では説明のつかないもの、もっと人間の本能的なものであり本質的なもの(それは見たくはないものかもしれない)を描いたときじゃないかな、と思うのです。
++++++++
※以降に文章はありません。「投げ銭」で応援いただけるとうれしいです。
ここから先は
¥ 300
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?