元SEが≪漆器の作り手≫になる(6)
いきなり余談です
IT企業に在職中、避けては通れない一大イベント(?)とも言える「西暦2000年(Y2K)問題」が発生しました。
これは、過去に作られたプログラムが日付の年月日を西暦の下二桁しか保持していないことで誤作動を起こしてしまう、というものです。
つまり、2000年になったとき、西暦の年数が下2桁だけだと「00年」となってしまうのですが、これが「1900年」として処理されてしまい様々な不都合が起こるのです。
(中には、下二桁が50以上なら1900年代、50未満なら2000年代とするようなコーディングもありました。その場合、2000年は持ちこたえたとしても、2050年で結局は破綻するのでいずれにせよ修正は必要になります。)
もっとも、世紀末の1990年頃に作られたプログラムは“それ”を想定して予め西暦4桁で設計しているはずですが、それ以前の昔の人は自分が作ったプログラムが2000年まで動くことを(無責任なことに?)想定していなかったケースがあるのです。(当時はメモリを節約する意味もあって年数を2桁しか持たせなかった、という背景もあります。)
この、先人たちの「尻拭いイベント」は、綿密なスケジュールの上、多くのマンパワーを必要としました。(就職難と言われた時期でもこの業界では求人出していたのではないでしょうか?)
2000年問題に対応するため様々な作業が必要でした。
現在稼働中のプログラムの調査・改修はもちろん、修正したプログラムをどう配布し、テストするか。顧客との日程調整も必要となったりします。
そして何より、それまで蓄積されていたデータのコンバート作業。
どのくらいの蓄積データがあって、
データベースの拡張で容量は足りるのか?
コンバートに要する時間はどのくらいかかるのか?
稼働中のシステムはどのくらい止められるのか?
場合によっては過去のデータを「切り捨てる」判断も必要でした。
…ちょっと昔を思い出して書いてしまいました。
1999年はそれこそ全国各地を飛び回った年。(遠隔操作でプログラム更新は可能でしたが、現地でテストをしないわけにはいかないので)
さらに大晦日から正月にかけては、会社で夜通し待機したりしましたっけ。
結局、“恐怖の大王”は現れず(笑)、大きなトラブルは起こらなかったので、延々と会社PCの「フリーセル」をプレイしつつ静かな新年を迎えたのでした。
毎年、正月は実家の会津若松に帰省していたするのですが、この年だけはさすがに無理でしたね。
会社から求められること
2000年問題も無事に(?)乗り越えた私。
中途入社してから結構な年月が経っていました。
新入社員は毎年入ってくるので後輩社員がどんどん増えていきます。
後輩の指導・教育も仕事の一つになり、もうプログラム開発だけやってればいいなんてことはありません。
そもそも、プログラミングは若くて体力のある、単価の安い社員の仕事なのです。(加齢とともに、徹夜や残業はきつくなるし、頭も回らなくなっていきます…泣)
業務経験を重ねるごとに、プログラマーはシステムエンジニアへ、
そして、プロジェクトリーダー、プロジェクトマネージャーへ。
会社から求められることは変化していきます。
それはつまり、
「ものづくりからマネジメントへ」
管理職、それは、それまでの技術職とは全く別の能力(スキル)と言ってよいでしょう。
この業界では、若い時に一生懸命鍛えたスキルは、勤続年数が増えていくとともに生かされなくなっていくのです。(全く役に立たないわけでありませんが…)
ある意味「プロスポーツ選手」に似ていると感じます。
体力の衰えを感じて現役を引退したら、指導者(監督やコーチ)に。
もしくは解説者などに転向しますよね?
第二の人生でも輝ける人はいいでしょう。
でも、私は管理職でやっていくる自信がありませんでした。
手に職をつける
「手に職をつければ一生食いっぱぐれない」
はるか昔にそんな夢のような話を聞いたことがあります。
しかし、少なくともプログラマーやシステムエンジニアはそういう職業ではなかったようです。
(今はなんとAIがプログラミングする時代に!?)
では、職人の仕事はどうでしょうか?
一度身に付いた技術は年齢を重ねても生かすことができると思います。
齢80を越えても現役で仕事をしている父を見るとそう思います。
もっとも体力は衰えることはありますが、全くできなくなるわけではありません。
一貫してやることが変わらない「職人仕事」、理想的な職業ではないでしょうか?
(まあ、漆器が売れるか、売れないかという話は別として。)
配置転換
あるとき、会社内で異動がありました。
配置転換というやつです。
管理職になったとはいえ、それまで自分が携わってきた部署では業務経験を生かしてなんとかやっていけました。
しかし、これまでと違う部署のリーダーになってしまったら?
私は、新たな部署のメンバーや業務内容になかなか慣れることができませんでした。
業務内容は部下社員の方が熟知しているので、私は「何も知らないリーダー」扱いされ、とても居づらい環境となりました。
スケジュールを管理するにも、部下たちがどのくらいのスキルがあるのか把握しきれずに悩みました。
直属の上司も頼りにならず、上からも下からもコミュニケーションが取れず、完全に孤立していってしまいました。
(ああ、そういえば、自分は元々人付き合いは得意じゃなかったよな…)
忘れていた過去の自分を思い出したりしてしまいました。
迫りくる毎週の進捗会議に怯えながら、
報告資料づくりに時間ばかりかかるようになりました。
終電ギリギリで帰る日が続き、会社の最終退出者になることが多くなりました。会社のオフィスにカギをかけて帰ることから、
「代表戸締り役」と揶揄され、ときには帰宅を諦めて会社に泊まる日も。
会議の日の朝が来ると、具合が悪くなってしまい、
会社に行けなくなったりもしました。
完全に身体が壊れてしまったようでした。
そして燃え尽きる
管理職には、定期的に社内研修が課せられていました。
テーマは「部下の育成やモラール(士気)向上のためには?」とか、
「パワーハラスメントについて」とか。
あるとき「部下がこういう症状のときは『うつ病』かも」
といったテーマの研修があり、それを聞いていたら、
『これって、部下云々じゃなくて、自分の境遇のことなんじゃないか?』
と気づきます。
このときちょうど直属の上司が変わったので、そのタイミングをみて、
「しばらく休職したい」と相談を持ちかけてみることにしました。
私は完全に燃え尽きていたのでした。
(つづく)
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