元SEが≪漆器の作り手≫になる(7)
前回のおわび
前回の最後、心が病んでる状態を書いて終わりました。
読んで不快に思われた方がいらっしゃいましたら申し訳ありません。
この頃の記憶は非常に曖昧なんです。
事象が断片的で、書いたのを読み返しても整合性が取れていなかったりします。
とにかく時系列があやふやです。
もっと深く思い出せば、正確に詳細を書けるのでしょうが、
それを拒否してしまう自分もいたりします。
休職、そして退職
休職が認められて、業務からしばらく距離をおくこととなりました。
会社から紹介された心療内科のクリニックに月一で通い、診察を受けて薬を処方してもらいます。
そのクリニックでは私以外にも患者が多く、予約時間に行っても結構長い時間待合室で待たされました。
とにかく、体を休める、こと。
クリニックから処方された薬を就寝前に飲む。
やることもないので早めに寝るのですが、それまでの生活習慣があるのでなかなか寝付けませんでした。
終電で帰り午前1時過ぎに帰宅した後、コンビニ弁当で遅い夕食を摂って寝るのは2時か3時、そしてまた7時に起きる…という生活をずっと続けていたのです。心身ともに悪化していたのです。
眠れない夜は不安が募るばかり。
そして、「また早く職場に復帰しなくては」という焦りも。
休職中も一定の給与が振り込まれてきます。
これも労働者の立派な権利ではあるのですが、それが後ろめたい気持ちになったのも事実。
うつ病は、時間をかけてゆっくりと治していかないといけない、と言われているのですが…。
結論からいうと、復職を焦るあまり、半年で会社に戻りました。
(主治医やカウンセラーにはまだ早いと引き留められましたが)
そして、やはり戻っても仕事はできず、逆に悪化させてしまいます。
その後、極度の不安から夜は呼吸困難になり、死の恐怖から救急車を呼んでしまったりしました。
(救急車内で酸素飽和濃度を測るも正常、搬送先の病院で検査するも異常なく、すぐに家に帰されてしまいました。)
このままアパートで独り暮らしを続けていては毎晩のように不安に襲われてしまう。
そう遠くない場所に叔父が二人いて色々と助けていただいたのですが、
いつまでも世話になりっぱなしというわけにもいかず、
実家に戻る決意をします。
当然、会社は辞めることになります。
仕事を失うことの不安はもちろん大きかったのですが、
お金より、命・健康を選択しました。
セカンドオピニオン
会社から紹介されたクリニックに通院し続けてもなかなか改善の兆候がみられませんでした。
そして、臨床心理士である妹の助言で別のクリニックを受診することにしました。
(第3話でちょっと触れた、大学に5年かかった妹が取った資格はこの「臨床心理士」です。)
妹の勤務先のクリニックで検査を受けるとうつ病ではなく「パニック障害」と診断され、それまでと別の薬を処方されるようになりました。
そしてそれが功を奏したのか、少しずつ症状改善がみられるようになってきました。
「会社辞めなくても良かったんじゃないの?」と主治医に言われたような微かな記憶があります。
(退職した時期と、クリニックを変えた時期との時系列が実はあやふやです)
主治医に地元の病院宛ての紹介状を書いてもらい、引っ越し後も地元の病院に通院できるようになりました。
(諸事情があって、私は、東京⇒白河⇒会津若松、とちょっとずつ“転院”しました)
地元に帰って思ったこと
地元に帰ってきました。
実家に帰ってきました。
でも収入はゼロになりました。
蓄えていた僅かな貯金と退職金だけでしばらくは生活しなければなりません。
しばらく休養が必要でした。
何もしないことが重要でした。
処方された薬を毎日飲み、
天気の良い日は日光を浴び、セロトニンの分泌を促す。
何もできない自分に決して焦らない。
周囲の目や言葉も気にしないようにする。
実家では…
40過ぎて完全に燃え尽き症候群となってしまった自分とは対照的に
父は70過ぎても現役で働き続けていました。
伝統工芸士となって展示会に出展していたり、地元開催の漆器のイベントに駆り出されて実演をしていたり、漆器訓練校の講師をやったりもしていました。
相変わらず私は漆器に興味は湧きませんでしたが、父がどんなことをしているのか見に行くことがありました。
いつしか地元の催し事とかを少しずつ見て回るようになっていました。
もう、会津若松に骨をうずめる覚悟はできていたので、
地元のことを知りたいと思うようになっていた、のかも知れません。
鶴ヶ城マラソンにも出てみました。
会津の伝統工芸の展示なんかも(なぜか)いつの間にか見に行くようになっていました。
そして、そこで会津漆器を作って出展していた人達を見てとても驚きました。
え!?こんな若い子たちが漆器を作っているの!?
私は、漆器業界ってずっと「むさくるしい爺様(笑)」の独壇場だと思っていました。
衝撃が走りました。
彼女たちは、何故若くして漆器に魅了されたのだろう…?
この時を機に、ちょっとずつ、
漆器に興味が湧いてきた…、ような、気が…、します。
(とはいえ、ここですぐに漆器づくりに目覚めるわけではありません)
再始動
地元の病院の精神科に通うこと3年。
ようやく主治医の許可が下りました。
自分も、なんとなくもうそろそろ大丈夫だろうという気はしてきていました。
発症したと思われるときから起算して5年の歳月が経っていました。
実家暮らしで、家賃も食事も心配いらない環境に移りましたが、
いつまでもこのままではいけないことは重々承知していました。
ようやく再就職へと動き出します。
しかし、ハローワークで求人を探すも、それまでやってきた職種での検索ではなかなか希望の条件は見つかりません。
未経験の業種ならいくらでもあるものの、そこに飛び込む勇気はありません。
そもそも年齢的に厳しい(40越え)。
しかも、ここは東京ではない。
IT関連企業は、いくら会津大学がある地方とはいえそんなに多くはない。
あっても、期間契約社員です。
それでも何もしていないよりはマシ。
短い期間の求人ではありましたが、そこに応募することにしました。
休養していた空白の3年間は隠しようのない事実。
素直に面接で話をし、有難いことに採用していただきました。
自宅から通える近い距離。
平成23年2月、久しぶりの「勤務」が始まりました。
それは、東日本大震災の一ヶ月前のことでした。
(つづく)
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