言葉の受け取り拒否はできる。
続けることが大事。継続は力なり。なんて言うけど、わたしが続けられたことはいくつあるのかな、と指折り数える今日。お久しぶりのnote更新です。
言葉の受け取り拒否はできる。
この事についてここ最近書きたいな、と思っていてnoteを引っ張り出してきました。この言葉だけでなんとなく理解できる人はフィーリングが合いそうなタイトル。
SNS上で様々な論争を目の当たりにする中で、ある意味凄く真っ直ぐで意見や批判を素直に受け止める人が多いな、と最近思っています。多いというよりも目についているだけかも知れませんが。様々な声を受け止めて反発する人や突っぱねる人や、ダメージを受け傷ついている人を見かけます。それを目にする度にもやもやとしたやりきれない感情が渦巻きます。
例えば私は凄く頑固なので、周りから入ってくる言葉全てを柔軟に受け入れることはできません。赤の他人の声に耳を傾けることも大事だと思っていますが、私にとって本当に聞くべき声は大切な身近にいる人達の声なのだと思っています。
全ての言葉を真摯に受け止める必要はないのではないか、ということです。よく政治家やニュースに出てくる問題の責任者なんかが「真摯に受け止め、」と言っているのをよく耳にしますが、それを真似る必要なんてどこにもないのです。自分が相手に責任を感じている場合であれば別ですが。
言葉は誰のものか考えたことはありますか。
言葉は口にした途端に聴こえてくるし、目にした途端に見えてしまうから受け手は全てが自分に向けられていると感じてしまいがちです。私自身言葉に傷つけられたことは幾度となくあります。相手が無意識に発した言葉でさえ、私に酷く鋭く刺さることもありました。なんて理不尽なんだろうと、感じたことがある人はきっと私以外にもいるはずです。なぜそんな言葉に傷つけられなくてはいけないのか、傷ついてしまうのかと。怒りもまたしかりです。
きっと相手にしなければいいとわかって、言い聞かせている人も多いのではないでしょうか。相手にしている人は、ある意味相手にしっかり向き合える人なのでとてもパワーがある人だと思います。私はそのパワーがなかったので、やり過ごすことをずっと考えていました。
受け取り拒否した言葉は宙に浮くのだと思います。そして煙のようにいつの間にか消えてなくなるでしょう。言葉の受け取り拒否は拒否したところで発言元の存在にダメージを与えるカウンターではありません。ただ自分のために、自分を大切にするために都合よくエゴを発揮しましょう。相手の言葉を受け入れるか、拒否するかの選択権はいつも自分にあると思います。
いつもそうですが、私の書くことは全て持論なので正誤はわかりません。また正解があるのかもわかりません。私の考え方と書く文章によって少しでも誰かが楽になったら良いなと思います。いつにも増して文の軸がぶれてるお久しぶりのnoteは、親と職場の人との意識の不一致の話をしていた際に思い付きました。話を聞いていて言葉を全て受け止めることはしんどいだろうと感じたのが始まりです。書けてすっきり。
映画の台詞をいくつか聞き逃してもストーリーはなんとなくわかるように、世の中は自分にとって大事な言葉だけではないと思います。話がわからなくなったときは周りにいる話を聞いてる人に尋ねてみたいと思います。
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