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『幸福論』

何が幸せかくらい、自分で決めなよ。


生意気な後輩だとは思っていたけど、ここまでとは。正直こういうタイプは苦手だ。なのにどうして、言われるがままに街へと繰り出して、一緒にショッピングなんてしているんだろう。


「先輩は、どういう服が好きなんですか。その服、絶対自分の好みで選んでないですよね」


いちいち腹の立つことを言う奴。全部自分の好きなように生きられている人間なんて、一体どれだけいるだろう。強さか、金か、権力か、そういう何か特別なものがない限り、「無難な人生」からは逃れられない。こちとらなにも好き好んで無難をやってるはずもなく、「分不相応」を検知した途端火災報知器かなにかみたいに、ネチネチネチネチとまとわりついて離れない「世間」というものから、私なりに身を守る術なのだ。


「制服の下にガーターしてるの見ました」


「あ……れは、実用性!別にファッションとかじゃないから。なんでもそういうのに結びつけるのやめてよ」


「いいえ。わざわざブランドのサイトで検索してるの見ました。ファッションじゃないならノーブランドの安いやつでいいじゃないですか」


「ちょっ……勝手に覗き見ないでよ。なんでそんなことするの」


私のことが嫌いなくせに、どうしてそんなにまとわりついてくるのか。それを拒みきれない私も私だ。それにしてもたまたま見えただけとか、見えるようにしているのが悪いとかいくらでも言い返してくると思ったのだけど、予想外の沈黙に気まずさを感じ始める。とにかくその状況を断ち切る適当な言葉を探し始めたとき、彼女がそっと私の袖口を掴む。


「……先輩に興味があるからです。袖口の下に隠しているタトゥーシール、今日はどんな柄かなとか。先輩が調べていたブランドのサイトで私もガーターベルトを買ってみました。確かに蒸れないしいい所もあるけど、結構めんどくさいし使い心地はそんなに良くなかったです」


「……何。私のせいってこと……?」


「違います。使い心地はそんなに良くないですけど、結構気に入ってるんですよ。今日だってしてますし。見ます?」


「みっ、見ない。急に何言ってるの!」


「見ないですか。私は見たいですけどね。今日はどんなのしてるんですか?」

彼女は私の袖口のボタンを外して、捲り上げる。その手を振り払わない私も私だ。


「真っ赤なリボン。コルセットピアスですか?私、卒業したらあけようと思ってるんです。先輩もどうですか?」


「……いや、痛いのは苦手だから……」


「そうなんですか?それじゃ仕方ないですね。痛くないオシャレだって沢山ありますし」


急に態度が柔らかくなって、調子が狂う。誰にも文句を言われたくなくて、嫌われないために作り上げてきたあの無難な自分のほうじゃなくて、今までただただひた隠しにしてきた自分のほうを好かれてしまったら、一体どうしたらいいのか。誰にも特別好かれない代わりに誰にも特別嫌われないできた今までの自分、何年もかけて積み上げてきたものが全部どうでもよくなってしまう。誰に嫌われて、誰に唾を吐かれようと、全部全部が全くもってどうでもよくなってしまう。


「先輩がそれで幸せなら別にいいですけど。好きなものを貫くのだってそんなに簡単じゃないことも知ってますし。でも私からしたらやっぱり勿体ないって思っちゃいます。そんなに素敵なのに」


彼女は照れくさそうに左手で右手を手を擦り、身につけているチェーンが揺れる。私の視線に気付くと、彼女はそれについて話してくれた。


「気になります?最近気に入ってよくしてるブレスレットなんですけど。このビーズ、インドの女性達が作っているんですって。インドの村じゃまだ電気が通っていなくて、だけどこのビーズを作って売った収益で発電機が買えたりとかしてるらしいです。その村では基本的に女性は働くことができなくて、一人で生きていくことができないから結婚して子供を産むしかない」


彼女は手首の石をじっと見つめている。肩の辺りで短く切り揃えられたストレートヘアが頬にかかって、表情は見えない。


「私達も別に言うほど自由じゃないですけどね。人と違うことをしようとすると誰かしらに何かを言われたり、足を引っ張られるし。今の世の中じゃまだ、女が自立するのは男がするよりはやっぱり難しいですしね」


何かを諦めたような笑みを見せる割に、彼女の瞳は曇っていない。諦めきれない自分に気付いてしまった私は、黙って頷くことしかできない。


「私たちよりよっぽど不自由な世界に生きてるはずなのに、このビーズを作ってる人達は全然諦めてないじゃないですか。ビーズが売れたお金で村を少しでも豊かにして、ちょっとでも自立しようとして。もちろんそんなに簡単じゃないけど、それでも当たり前に仕事も結婚も選べる私がなにを諦めてるんだろうって、最近思うんですよね」


こんなことを言ったら軽蔑されるかもしれないけど、彼女みたいに好き勝手生きてる人間は、周りのことなんて少しも考えていないんだと思っていた。誰に何を言われても傷つくことなんてなくて、傍若無人にしか生きられないのだとばかり思っていた。


「なんかごめん」


「謝られると余計に傷つくんですけど。どうせ私のような人間は何も考えてないって思ってました?」


「実のところ、そう」


「なんですかそれ。やばい、先輩みたいな人大好きかも……」


顔が熱くなって、身体全体が心臓になったみたいにドクンと脈打つ。世界が一瞬遠のいて、全部がどうでもよくなっていくのを感じる。世間体とか、嫌な視線とか、ひそひそ話とか、勘違い女とか、自分が特別だとでも思ってるの?とか、全部、全部、どうでもいい。心の底から、どうでもいい。


「ねえ、その服どこの店。私も行きたい」


「電車で40分くらいかかりますけどいいですか?」


「え。なんでそんな遠いの……」


「都会にしかないお店なんですよ」


「田舎者で悪かったわね」


「まあ確かにその服で都会を歩くのは恥ずかしいかも。着替えていきます?」


「着替えたところで似たようなのしか持ってないんだけど」


「ああそっか。じゃ、これから買いに行きましょっか」


「……」


ほんとムカつく奴。嫌いになれない私も私だ。


何が幸せかなんて、とっくに決まってた。それが幸せじゃなかったら怖いから、踏みつけられ汚され失くすのが怖いから、大事に隠して逃げていただけだ。


踏みつけられても汚れたりしないってようやく分かった。だって今まで散々踏みつけられてきたはずのこいつは、こんなに輝いている。そんなこと本人の前では絶対、死んでも言ってやらないけれど。


「ねえ結局ガーターどれにしたの。何番のやつ?何色?」


「番号なんて覚えてないですよ。見ます?」


「見ないって!」


本当は見たいと思ってるとか、似合うと思っているだとかも絶対、死んでも言ってやらない。


『幸福論』ブレスレット&リング

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作中に登場するガラスビーズは、mayglobe beads&craft様にて購入したものです。Share The Loveプロジェクトは、インドの貧困と女性の自立を支援する活動です。ビーズの売上で電気の通っていなかった村に発電機がやってきたり、女性が自分で稼いだお金でサリーを買えるようになったりと、少しずつではありますが村の生活が豊かになっていっているといいます。異国の地で私たちと同じように生きている人たちの存在を感じ、勇気が湧いてきます。



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