わがままの独り言
文章を書くのが好きだ。
自分の作品ができていくのが好きだ。
そんなふうに思いながらいろんな場所で文章を作ってきた。
でも、いろんなとこで書けば書くほど、プラットフォームに合わせた文章を書いてしまう。
自分のオリジナルとは何か?
表現したいことは何か?
そう考えた時にその場のルールに則したものになってしまう私の文はどうしようもないものだと思ってしまう。
様々なプラットフォームに様々な私がいる。
どの私も私だが、本当に一番大切な私はどこにいるのだろうか?
そう思ってしまう。
自分の弱い部分、強い部分、誰にも負けない部分、そんなところを曝け出したいとも思わない。
基本的に作ったものは自己満足でしかなく、私のパーソナルなところなど興味もないのだろうと思ってしまうからだ。
もちろん、ストーリー性、ブランド力というものはかなり強くある。
でも、言えること、言えないこと様々な要因があると表現の幅は減ってしまうのだ。
言論の自由ともいうが、このネット上のプラットフォームに流すということは不特定多数の他者の目に触れるということ。
そんな制限の中で自分を最大限にアプローチすることが私にはまだできない。
見た人のことを考えてしまうからだ。
人一倍感受性が豊かな私は他人の痛みを自分の痛みと思ってしまう。
ただ、それも優しいとかじゃなく、知人には
君は同情してるだけ、"あなたはこんなことで傷つくでしょう、私は傷つかないけど"
っていうことだよ
と言われて、妙に納得しかけた。
(優しくないといわれたことに関しては納得できなかったが)
確かに私は理解してくれないのは残念と思うが悲しんだりはしないからだ。
他者と自分は違うから全く同じものをいいと言わないのは当然だからだ。
少し話が逸れたので戻るが、私は空気を読めない文章を書くことに抵抗があるのだ。
他者がいいと思わないことも、興味が無いこともわかってる。
それを気にしないのも私だ。
ただ、ネットという不特定多数の人が見る場でそれを行えないと思ってしまう。
好きにしたらいいかもしれないが、それが他者を傷つけるかもしれない。
そう思うと表現を大まかに変えたくないのである。
ただ、ここにも変な私のポリシーがあって、他者の模倣は好きじゃないのだ。
(ここがややこしいところ)
伸びている人の真似をする。
これは大切なことであり、確かに効率もよく正しい選択である。
でも創作物にオリジナリティがないと意味がないと思うてしまうのも事実なのだ。
まぁ、ここまで文を読んでいただくとおわかりだと思うのだが、ただのわがままが炸裂しているということになる。
noteの文は一切推敲をせず、一発書きで思ったことを垂れ流しているので、読みにくさや話の繋がりにくさがかなりあると思うが、割と自分なりのものが多めに出ている部分でもあると思っている。
それでも真面目なものをとにかく書いているので、不真面目で適当な文を書きたいなとも思ってしまうのだ。
物語も書きたい。詩も書きたい。絵も描きたい。デザインしたい。
私は基本的に頭が良いわけでもバイタリティに溢れてる訳でもない。
予備知識を入れるわけでもなくしたいことがしたいのだ。
そう、ただやりたいことが多すぎるだけの人が私ということになる。
つまりこの文章は他者への配慮やその場に則したこと、規則やきまり、やらなければならないこと等、何にも縛られずに好きなことをしたいというただのわがままの独り言だったという話である。