【連載】私がライターという仕事を選び、今も研鑽を続けているワケ【その1:子供時代~大学生編】
こういうテーマで書くのは初めてです。頑張って書いてみます。今日は私が「ライター」という職業を選んだまでのことを話しますね。でも、職業というよりは生き方とか、ライフワークのほうが私の感覚的には近いかなと思っています。
昔はライターになりたい訳じゃなかった
小学生の頃の卒業アルバムを見ると、将来なりたいものに「アナウンサーか声優」と書いてありました。その頃は人前でハキハキと話すことを褒められたり、アニメやラジオが好きで声優さんにも憧れていたからだと思います。当時の私は、ライターという仕事を認識していません。
中学、高校と進学していくうちに、私は「なりたいものがわからない」状態になりました。部活は吹奏楽部でフルートを6年間やっていたけれど、コンクールに出れば上には上がいる。個人レベルで見ても、私は称される技術と才能を持たない……。実際にソロでコンテストに出ても、終わってみれば恥ずかしさしかなかったのです。音楽の道では限界を知って、毎日朝練も夜練も頑張っていたのに、「大学では音楽をやめよう」という気持ちになっていました。
大学では音楽を辞め、「出版」に近づくために
大学受験は志望校にことごとく落ち、ようやく受かった1大学に滑り込んだので、実はあまり行きたい気持ちがありませんでした(汗)。でも大学に入ったらやりたいことがありました。それは「出版に関わるサークルに入る」こと。音楽を辞めた私は、小学生のころに総合学習で訪問した出版社での出来事を思い出していました。
「雑誌をつくる」という仕事に、憧れがあったのです。さほど広くはない事務所、デスクに積まれた大量の書類、小学生の私たちを迎えてくれた編集者さんたち。今でもよく覚えています。そういう場所から、雑誌は作られて、書店に並んでいるのだと。
大学の入学式を終え、サークルの新歓期間にとあるオリエンテーションで「新聞会」なる団体があることを知りました。私はすぐに入会を決意しました。
大学新聞で「文字を書き、つくる楽しさ」を知る
新聞会という団体には、先輩や同級生含め10人くらいのメンバーがいました。私はそこに4年間所属して、年に4~5回の大学新聞発行、毎年4月に新入生向けパンフレットの制作・発行を経験しました。一眼レフカメラを持って取材に駆け回り、部室や自宅で原稿を書き、メンバー同士で朱入れをし、代々木の印刷所でゲラ確認。そして私は大学3年次に編集長を担当し、部会の準備や進行などもやらせてもらいました。
新聞会に入ったこと、人に恵まれたこと、モノを作ることの大変さと楽しさを知ったこと。大学時代に得た大きな経験でした。このときにお世話になった先輩や友人とは今も交流が続いていて、実は同じく新聞会で苦楽をともにした同級生が、数年後の私の結婚相手でもあります(笑)。
論文コンクールで表彰され、自分の強みに気づく
新聞会での経験は、確かに私がいまライターという仕事をやっているひとつのきっかけではあります。でも、それだけでは私はライターを目指すことはなかったと思っています。
大学3年次に、ゼミで「論文を書き、学内コンクールに応募する」という課題が出ました。私はWeb系の専攻に進み、ゼミもウェブマーケティングをテーマにする先生の元にいたのですが、このときに「電子書籍の3端末(Kindle/iPad/ゲーム機)で比較研究」という論文を書きました。この論文が、学内コンクールでその年度で最も位の高い、たったひとりの優秀賞に選ばれたのです。授賞式に出たり、挨拶をしたり、大学の広報に名前が載ったり、大学図書館にも論文が残り続けています。
私個人として、誰かから何かを認められたこと。私にとっては衝撃的な体験でした。サークルでは得られなかった、私に対する評価。たとえ大学という小さな箱の中で行われたことだったとしても、素直に「嬉しい」「自慢したい」と思えました。
新聞会の経験、研究論文コンクールの受賞、これが私をライターという職業に押し上げる原体験だと思います。まあでも、このあとに人生最大の難所が訪れるんですけどね(笑)。
就職活動ができない、働き方がわからない
まっとうにいけば、多分私は大学3年の冬から、ライターや出版関係の仕事を目指すために就職活動をやったと思います。でも、皆とは同じ行動を取れませんでした。
私には、生まれつきの持病があります。脳の慢性疾患。0歳のときに初めての発作があり、幼少期に診断がつき、物心ついたときから毎日薬を飲んで病院通いが当たり前。高校時代にも病院で倒れてそのまま1ヵ月入院、しばらく学校に行けなかった時期もあります。
就職活動の始まる時期になって、ようやく私は気が付きました。どうすれば、私は社会に出て働けるのだろう……。平日は病院に行かなくちゃいけない。夜ふかしができない、体力にも制限があるから残業も厳しい。というか、そもそも持病があるってことを面接で言うのか、書類には書くのか。会社に入ったらどうやって自分を守ったらいいのか。
大人になった今でなら、キャリアセンターに相談に行くべきだった、OBかOG、ゼミの先生にも正直に相談すべきだったと思います。でも当時の私は「自分の病気のことは誰にも話してはいけない」というルールを頑なに守っていました。誰にも相談できなかったのです。
本当に、あのときの私は思考停止だったと思います。
ゼミの先生に「履歴書を送れ」と言われる
周囲が就活ムードの中、私は地元で就職するのかな……となんとなく考えて、就活から逃げて、医療事務の資格を取ったりしました。いよいよ大学4年生になり、卒論を書いている間に、ゼミの先生からこう言われました。
「新卒で働けるのは今しかない。どうするの?」
それでも私は、ゼミの先生には病気のことを話せませんでした。唯一話せたのは「就活はしていない。地元で働こうかなって」。けど今思えば、それが私の本意ではないことはバレていたような気がします。先生のスパルタ授業ではクラスで1位を取り、論文課題も負けずにやり遂げた私が、どうして就活をしないのか。先生はこう私にアドバイスしてくれました。
「じゃあ、Webの会社でバイトをやってみたら? 自分で手紙を書いて、履歴書を送ってみなよ」
先生に言われて、そんな方法があるのかと知りました。正社員じゃなくてバイトならば大丈夫かもしれない。やっぱり私の胸の内には、働くことを諦めたくない気持ちがありました。アルバイトは大学在学中にホームセンターやケーキ屋で働いていたので、できるだろうと。毎日じゃなくて週3日程度、これなら体の弱い私でも大丈夫かもしれない。
でも、現実はそう甘くはありません。
働く場所が見つからない、私の選択
数社、特に電子書籍系の事業をやっている会社に、手紙と履歴書と卒論をまとめた封筒を送りました。返事は1社からもありません。手紙には「事情があり、週3日程度のアルバイト勤務を希望しています」と書いていました。
この方法でもダメか……。またゼミの先生のところに話に行きました。「先生、封筒送ったけどダメです」と。そうしたら今度は、先生が新しいことを言い出しました。
「だったら、知り合いを紹介するよ。電子書籍の会社じゃあないけれど、ITベンチャーで、テープ起こしとか取材のカメラやってほしいって」
大学卒業後、2011年4月に「株式会社日本技芸」というベンチャー企業(現:rakumo株式会社)に入社しました。当時あった調査室に入り、社会学者としてメディア等でもご活躍中の方のもとにアシスタントに入ったのです。ここから私が、仕事としてのライターを知り、手を動かし、自分のやりたいことを「やりたい」と言えるようになっていきます。
次回は社会人編「泣く泣くライターを諦めることに」
子供時代から大学生編はここまで。次は社会人編20代になりますが、そのときに私が人生で一番悔しかった出来事がありました。ライターって、持病持ちにはマジで厳しい職業なんですよね……。
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writer:ハシヅメユカ