見出し画像

すずめの戸締まり、やっと観覧〜日本vs.海外

イースター休暇の一時帰国中に次女と念願の映画を日本で見ることができた。日本では去年11月から放映されていたこともあって4月中旬にもなると1日1回の上映。平日午前の観客は10人程だった。静かな空間に静かな観客、ズッコケ場面で笑っていたのは私くらい。Radwimpsの最後の曲まで誰一人席を立つ者はいなかった。2時間の同志たち(全く知らない赤の他人だが勝手にそう呼ばせてもらう)と静かにハンカチを握り涙し、各々がそれぞれの1日に向かって歩いていくそんな感じだった。

日本から帰国して早々、今度は米国で幕開けたばかりの『Suzume』を観に長女、旦那と連れだってIMAXへ。次女は悲しいからもう二度目はいいと言われた。そうだろう、私も幼い鈴芽をスクリーンで目にし次女と重ね泣いた。彼女は鈴芽と同じ16歳、あの時4歳だった。震源が違ったら次女は鈴芽だったかもしれない。私達はあの時、東京の高層ビルに住んでいた。旦那は帰宅困難になり、私は余震に怯える子等を抱えて敷布団をテーブルの下まで引っ張り一晩過ごした。

あの日から全てが変わった。
当たり前の日常はないと。
いつ自分の身に起こってもおかしくないと。
そして被害に遭った人を思い心を深く痛めた。

まず私は「この作品を作ってくれてありがとう」と新海誠監督にお礼を言いたい。私の勝手な独断と偏見の解釈だが、これは日本に住む人々へ向けた、3月11日の鎮魂映画だと思う。救いたかったのに救えなかった。助けたかったのに助けられなかった。何かしなくてはと思うのに何もできなかった。ごめんねと言いたかった。出来たことはただ12年、粛々と過ごしてきただけだった。そんな私に「いいんだよ」と映画は許してくれた。鈴芽は私の家族であり、環は私であった…その空想の世界をゼロから作り出してくれた製作者の方々に心から感謝する。ただこのように思えるのは私が被災しなかったからで、もし被災していたらどのように映画を捉えたか分からない。もしかしたら取り残された感があるのではないか。これは9.11に感じたものに近い。私はあの時、東京に居たが彼氏(現在の夫)も昔の同僚もアメリカに居て、昔の仕事先相手はワールドトレードセンターの犠牲になった。淡々と過ぎていく日本の会社での日々は他国での惨事は衝撃ながらも全くの他人事として扱われ私を唖然とさせ身震いさせた。だから被災された方がどう受け止めるのかは到底計り知れない。

当時6歳だった長女は震災のことを覚えていてエンドロール中に帰っていくアメリカの人達を横目に静かに涙を拭き、駐車場に行く道すがら号泣した。アメリカの観客は私が観た日本の観客とは少し違っていて、椅子になった草太がダイジンを追うところで笑い、芹沢の車が道路から外れた(ルパン三世状態)で爆笑していた。そうアメリカでの映画鑑賞は観客の反応が毎度あからさまだから笑う場面でのおかしさは増幅する。映画の最中、泣いている人はチラホラでエンドロールを最後まで観て(聴いて)いた人はわずかだった。海外でこの映画の言わんとする事がわかる人はわかるし、わからない人はわからないだろう。長女にアニメ好きの友達と一緒にもう一度観に行くかと聞いても首を横に振った。「私は、また号泣するし友達はそんな私がわからないだろうから一緒は無理だ」と言った。多分『Suzume』はファンタジー映画、海外ではそれで終わってしまう。それでもいいと思う。新海誠監督は世界に向けて作品を作っておらず日本のために作っているのだから、わからなくても仕方ないと思う。(↓YouTube 2:10から)

だからこそ監督は海外へ飛び「この映画は12年前に日本で実際にあった震災のことです。津波で多くの方が亡くなり、鈴芽のような子はたくさんいたんです。最後の扉で鈴芽が草太を救いに飛び込んで行く地面の火の様子は本当に震災の時にあったんです…等々。」日本国内では口にする必要のないことを各国のプレミアで説明して回る。監督の誠実さと熱い思いに私は心打たれた。

加えて映画という形で日本の風景を後世に残してくれた監督に私は心から感謝する。今、世界が不穏な動きをしていていつ日本も中国に攻め込まれるかわからない。物理的な侵攻を食い止めるために防衛を強化する方向で政府は動いているがマスメディアは酷いものだし、どうだろう。たとえ物理的な領土侵略はなくとも経済的、サイバーテロ的なものは既に着々と行われているし台湾有事は時間の問題だろう。

話は飛ぶが一時帰国中に次女を東京国立博物館に連れて行った。そこには伊能忠敬の地図があり、歌川国芳や喜多川歌麿の浮世絵があり、刀剣がずらりと並び、埴輪があった。まさに歴史の物証が惜しげもなく鎮座していた。ショーケースを前に東京直下型地震が来たら全てなくなってしまう、頼むから半分くらいは地方に分散保管して!! と強く思った。日本は第二次世界大戦でアメリカに敗れるまで侵略されていない稀有な国なので多くの美術品が未だ国内にある。その一方でNYCのメトロポリタンに行くと見たこともない日本のものがあるのも事実だ。東京国立博物館の東洋館は時間がなくて見なかったので日本が韓国、中国のどのようなものを所持しているのかは次回に見に行く事にする。何百年後の人類がアニメ映像という形で「日本という国」がどんな風であったか知るのは素晴らしいと思うのは私だけだろうか。

話はさらに飛躍するがポーランド人の友達と25年前プラハ、ワルシャワ、クラクフを旅した時にこう言われた。戦争でポーランドの建物は破壊されたからプラハのように観光客を招べる物がポーランドにはない。良くぞポーランドに来てくれた!とも言われた。プラハは、それはそれは美しい街だったので友人の言葉に納得せざるを得なかった。それでも私はワルシャワを素敵な街だと褒め、走っていた日本の古いバスに驚きポーランドは、昔の日本のようで心地よかった。クラクフの歴史ある建物を観、アウシュビッツへと出向いた。(←別の機会にポーランドの話はしよう)

外国人が日本で先ず行く先の京都は、原爆投下の候補地だったのを知っている人はどれくらいいるだろうか。もし投下されていたらポーランド同様、観光客を招べるものはなく…また日本人の国民感情的にも全く違う歴史になっていただろう。78年前、京都のことを知っていたアメリカ人の誰かが「京都への原爆投下をやめた方がいい」と言い、候補から外されたのだから物事を他人が知ることは非常に大事だと思う。旅行客やアニメ・漫画を通して日本を知ってもらうのはこれと同じではないか。(ソフト外交とでも言うべきか)

話がずいぶん脱線して最後は文化庁のまわし者のような一文になってしまい歯痒い。海外に住んでいるといろんな方向から物事を見るはめになるため、すずめの戸締まりを通して駆け巡った心情を忘れないうちにを書き残しておく。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集