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春と風林火山号に乗って #短編小説

 とうとうこの日がやってきた。
 直紀なおきは抑えきれぬ想いを胸に、帳面のおと駅バス停に到着した。駅前の掲示板に貼られた一枚のポスターに目をやる。
   春と風林火山号に乗って新宿に行こう!
 弾けるような文字が躍り、そこにはバス乗務員の制服を着た女の子のキャラクターが描かれていた。何度見ても、溌剌とした明るい笑顔が可愛いらしい。
 直紀はこれまで、こういった萌え系のキャラクターには全く興味がなかった。それなのに、この女の子には一瞬でグッと心を掴まれてしまった。

 このポスターを初めて見たのはひと月ほど前のことだ。
 直紀が帳面のおと駅バス停のベンチでボーッと座っていると、初老の男が、一人のしのしとやってきた。
 禿げ頭で、いまどき口髭を生やし、首には真っ赤なネクタイを下げている。しかもモミアゲがフサフサで、令和の時代にそぐわない剛毅な雰囲気があった。誰かに似ていると思ったが、思い出せない。

 モミアゲ男は手に大きな紙袋を持っている。そこからは筒状にくるくる巻かれた何本ものポスターが頭を覗かせていた。
 直紀がモミアゲ男に注目していると、帳面のおと駅の駅長が、ひょっこり顔を出した。

「いやぁ、社長自らポスター貼りに来るなんて珍しいねぇ」
 冷やかすように言う。
 駅長に向かってニカッと笑うと、モミアゲ社長は駅前の掲示板に、持っていたポスターを貼り始めた。
「このポスターどうよ! いいでしょう?」
 駅前にモミアゲ社長の声が大袈裟に響いた。直紀も気になってポスターを覗く。そこには、バスの運転手と思しき制服を着た美少女が、溌剌とした笑顔を向けていた。
「いやぁ、社長すごいじゃない。『春と風林火山号に乗って新宿に行こう!』かぁ。この絵の女の子、新人の運転手の子がモデルなんでしょ?」
「そう! どうだ、よく似てるだろう?」
「うん、特徴をよく捉えてるね。うまいよ」
 モミアゲ社長が、ポスターの美少女を見つめ、感慨深げに息をついた。

「この運転手不足の時代にさぁ、若い女の子がバスの運転手になってくれるなんて嬉しいじゃないのよ。しかもよぉ、春ちゃん、早く一人前の運転手になって母ちゃんを楽させてあげたいなんていうんだぜ。一生懸命で健気な姿を見てた会社の連中がさ、春ちゃんの初乗務を盛り上げようって言い出したんだよ」
「で、このポスター?」
「会社の中に絵がうまいのがいて、そいつが描くっていうから、まかせてみたらこの出来だよ。すごいだろう。うちの社員は皆、心優しくて多才なやつばっかりなんだよ。どうだ、うらやましいだろう!」
 モミアゲ社長は自慢げに鼻の穴を膨らませた。

 確かに、プロが作ったとしか思えない、目を引く良いポスターだと直紀は思った。それより何より、この絵の美少女にモデルがいるなんて、聞き捨てならない話である。
 直紀は更に聞き耳を立てた。モミアゲ社長と駅長の会話は続く。

「確かこの子、乗合春のりあいはるって名前なんだよね?『乗合のりあい』なんて珍しい名字だねぇ」
「ネットで検索しても、出てこないくらい珍しい名字らしいよ。名前からして、運転手になるべくして生まれてきたような子だな!」
 そう言ってモミアゲ社長は、満足そうに頷いている。
「で、乗合さん、初乗務はいつになりそうなの?」
「3月○日の帳面のおと駅発、21時の便。バスタ新宿行きに乗ってもらうことになった。  これ、駅の中にも貼らせてもらってもいいかな?」
「どうぞどうぞ」

 上機嫌で去っていくモミアゲ社長の背中を見送ると、直紀はすぐさまポスターに視線をうつした。ポスターの中の美少女は、直紀の真っ直ぐな眼差しに答えるように、微笑みかけてくる。
   乗合春のりあいはる……。
 その名前を頭の中で反芻する。
 直紀は、貼ったばかりのポスターが焼け焦げてしまいそうなほどの熱視線を送りながら思う。
 別に東京に用はない。だが、風林火山号に乗れば、このポスターのモデルである乗合春に会える。
 直紀は息を吸い込み、決意したように大きく頷いた。

 詳細を確かめるべく、もう一度ポスターに顔を近づける。弾けるような「風林火山号」の文字が目に飛び込んできたそのとき、
「あ」
 直紀は短く声を上げた。
 禿げ頭で、口髭。フサフサのモミアゲに、剛毅な雰囲気。
 あのモミアゲ社長、誰かに似ていると思ったら、教科書で見た武田信玄の絵にそっくりだった。

 ポスターの美少女も可愛かったが、実物の乗合春のりあいはるは、その数百、いや、何億倍も可愛いと直紀は思った。
 制服姿の初々しさも然る事ながら、初乗務の緊張で固くなっている様子を見ていると、駆けて行って抱きしめてあげたくなる。乗客を無事、バスタ新宿まで送り届ける責務に高揚している表情。その白い頬は桜のように染まり、水滴を跳ね返すように若々しい。
 その頬に、思う存分頬ずりできたらどんなにいいだろう。直紀は焦がれるようにそう思い、乗合春の横顔を見つめていた。

 乗合春は、運転席のマイクを手に取り、すぅっと愛らしく息を吸い込む。
「21時帳面のおと駅発、バスタ新宿行き『風林火山号』にご乗車頂き、まことに有難うございます」 
 声まで可愛いのか、と直紀は思う。
「本日、『風林火山号』の乗務をさせて頂きます、乗合春と申します。どうぞ宜しくお願いします!」 
   はるちゃぁーーーん!!!
 心の中で雄叫びを上げる。
 予想外の自己紹介に、直紀のテンションは最高潮に達した。バスに乗っているにも拘らず、アイドルのライブ会場にいるような興奮を覚える。
 近頃のバスは乗務員の自己紹介まであるのか。なんて素晴らしいサービスなんだと、直紀はむせび泣きそうになった。
 直紀の目尻や鼻の下はこれ以上ないほど垂れ下がり、膨らんだ鼻の穴からは熱い息が漏れた。
 もし今、胸を誰かにツンと突かれたら、充満した想いが間欠泉のように噴き上げ、風林火山号を、新宿といわず、遙か遠くのこの世の果てまで吹き飛ばしてしまうかもしれない。

 直紀は運転席の傍近くに陣取りながら、目の中に入れても痛くない、という言葉はこの子のためにあるのだと、強く実感したのだった。

 今夜の宿でもある、夜行バス・風林火山号は、3列シートの余裕を持ったつくりだ。トイレもあり、走行中にもよおしても安心。なにより、一列ずつ孤立したシートは脚も伸ばせて快適だ。
 そんな車内を眺めながら、時代は変わったと直紀は思う。
 昔の夜行バスは、普通の観光バスとほとんど変わらない座席だったせいか、他人と遠足にでも行くような気まずさがあった。それに引き換え、風林火山号は良質なクッションを備えた広々シートだ。しかも、前の席につかえることなく、脚をゆったりと伸ばせる。この風林火山号ならば、どんな人でも快適に朝が迎えられそうだ。

 だが、車内を見回してみると、物憂げに流れる車窓を眺める女性や、くちゃくちゃとガムを噛む若者、生気を失っているかのようにうつむく中年男がいる。ゆったりシートに座っていても、その表情はどこか険しく、あまり幸せそうに見えない。
 その中でも、4列目の真ん中に座る若い男が直紀の注意を引いた。
 パーカーのフードを深々と被っているので、その表情を窺い知ることはできない。かろうじて見える、すっと伸びた鼻と口許が、異様なまでに白かった。乗合春の美しい色白の肌とは違い、ざらっとした紙のように無機質な白さだ。
   要注意だな。
 と、直紀は思う。

 くちゃくちゃガムを噛む若者や、生気のない中年男よりも、こういう無機質な男が一番危ないのだ。
 直紀はフード男を睨みつけながら、何としても、乗合春の初乗務を成功させなければならないと、強く心に誓っていた。

 夜も深まり、バスの中は寝息やいびきが聞こえ始めた。
 延々と続く走行音に混じって、満席の座席からは胸につかえるほどたくさんの吐息が充満している。
 だが、直紀は睡魔とは無縁とばかりに目を見開き、しっかりはっきり覚醒していた。
 乗合春が今このときも眠らずにハンドルを握り続けているというのに、寝てなどいられない。
 直紀がかけがえのない時間を、いとおしむように味わううちに、時刻は深夜2時になった。

 風林火山号は、2度目の休憩時間に入る。
 最初の休憩は、日付を跨ぐ前だったこともあり、起きている乗客がほとんどだった。バスの中は禁煙なので、サービスエリア内の喫煙所で一服する者もいた。だが、深夜2時の休憩ともなると寝入っている乗客も多く、車外に出る者は格段に減る。そんな中、直紀は乗合春のボディーガード気取りで、ぐるりとバスの中を見渡した。

   異状はないか。
 直紀はトイレに行くふりをして、4列目の真ん中にいるフード男に注意を向ける。すると男が持っていたトートバッグからガサッと何かを落とした。男が慌てて拾い上げたそれは、拳銃のように見えた。
   バスジャックか?
 直紀の表情が強張る。
 胸の中の糸が、切れそうなほどにピンと張った。

 だが、フード男は拳銃をレジ袋にくるんでトートバッグにしまうと、それ以上の動きを見せなかった。トイレに立つこともなければ、外で休憩しようともしない。ただじっと、息を潜めて座席に腰を下ろしている。  

 思いがけず大きな音がしたので、他の乗客も銃を目撃したかもしれないと思ったが、騒ぎ立てる者はなかった。表向きにはこれといった問題もなく、バスは定刻通りに出発。ひとまずではあるが、直紀は胸を撫で下ろした。

 万が一のことがあれば、乗務員は盾になってでも乗客を守らねばならない。過去に起きた様々な事件を見ても、乗務員は客の安全を第一に考え、咄嗟に行動してしまうものなのだ。
 乗合春ならば、尚更そうしかねない。
 直紀は、彼女にそんな危険なことをさせるわけにはいかないと思っていた。彼女を守れるのは、自分しかいないという高揚感が、陶酔をまとってあふれ始める。

 あの拳銃が本物ではない可能性も充分ある。もしかしたら拳銃型のライターかもしれないし、子供用の水鉄砲かもしれない。
 どちらにせよ、正体がわからない限り、あれが脅威であることに変わりはない。

 直紀はバスタ新宿に到着するまでの残り数時間を、フード男の監視に費やすことにした。乗合春のおかげですっかり伸びてしまった鼻の下を指で押し戻し、直紀は自嘲的な笑みを浮かべる。
   こういうとき、存在感がないのは得だ。

 フード男に動きがないまま、時刻は午前4時。風林火山号は最後の休憩の時刻になった。
 夏ならば、そろそろ空も白んでくる頃だが、まだ3月。夜明けと呼ぶにはまだ少しだけ空が暗い。外が明るければ人も動くが、乗客たちも寝ぼけ眼のまま、ぼんやりしている。トイレに立つ者、渋々立ち上がり、歯を磨きに行く者、それぞれが自分なりの休憩時間を過ごしている。

 直紀は、じっとフード男の様子を窺う。
 バスが帳面のおと駅を出発して7時間。この男のしたことといえば、持っていた拳銃を誤って落としただけ。このまま何もせずにバスを降りてくれれば、彼は薄気味悪い一人の乗客に過ぎない。
 だが、直紀はどうしても、フード男のことが気になって仕方がなかった。これが第六感、というものなのかもしれない。

 出発時刻が近づき、乗合春が、乗客が全員座席に戻ってきているか、空中を指差ししながら数えている。確認を終え、
「よし」
 と小さく呟いた。やっぱり可愛い。

 乗合春が運転席に戻ると、エンジン音が唸りを上げた。のろのろとバスが動き出す。大きな車体をくねらせ、バスはサービスエリアを抜けていく。スピードを上げてバスが本線に合流した次の瞬間、フード男の気配が一変した。拳銃を隠していたトートバッグに、やおら手を突っ込む。
 そのとき、直紀は咄嗟に、男の右腕を掴んだ。

 突然、身動きが取れなくなった男は目を見開いた。何が起こったのか全く理解できない様子で、硬直した体を動かそうとしている。口だけがあぐあぐ動くものの、金縛りに遭ったかのように声を出せない。
 直紀はフード男の顔を覗き込んだ。

   あの子の邪魔するやつは俺が許さない。新宿に着いたら、おまえはすぐにバスを降りろ。そしてその銃を持って、「千駄ヶ谷五丁目交番」に行け。いいな?  

 紙のように白い男の顔は、更に漂白したようになった。白目を剥きながら、男は微かに頷く。直紀が腕の力を緩めると、フード男はそのまま気絶したように肩をガクンと落とし、そのまま眠り込んだ。

 万が一、男がハイジャック犯だった場合、最後の休憩を終え、バスが高速に合流したタイミングを狙うのではないかと直紀は考えていた。
 時間的にも運転手や乗客が一番疲れているし、自己顕示欲を満たしたいタイプの犯人なら、より東京に近い場所で事件を起こしたほうが大きく騒がれるからだ。

 直紀のときがまさにそうだった。
 かつて、夜行バスの運転手をしていた直紀は、刃物を持って暴れるハイジャック犯から乗客を守り、命を失った。
 お腹の大きかった直紀の妻が出産したのはその2週間後。3月のあたたかい日のことだった。 
  なおちゃん、天国からわたしと春を見守ってね」
 だが、涙ながらに語りかける妻の望みを、直紀は聞いてあげることができなかった。  

 きちんと葬式を出してもらった。
 きちんと墓にも入れてもらった。
 お供えも法要も、なにひとつ不足なく、供養してもらった。
 それなのに、どういうわけか直紀は成仏できなかった。直紀は「天国から」妻と娘を見守ることができなかったのだ。

 成仏できない亡霊が傍にいたら、子供の健やかな成長を邪魔しかねない。
 下手に家の中をフラフラして、察しのいい妻に、未成仏であることを気づかれてもバツが悪い。だから直紀は、死んで家族に会いに行くことはなかった。
 なぜ自分が成仏できないのかわからぬまま、直紀は長いこと帳面のおと駅のあのベンチに座り、行き交うバスを眺めていた。
 モミアゲ社長がポスターを貼りに来たあの日、直紀は描かれたキャラクターのモデルが娘の春だと知った。未成仏の亡霊である自分が、立派に成長した娘に会うなんておこがましい。だが直紀は、自分と同じ道を選んだ娘に会いたいという気持ちを、どうしても抑えることはできなかったのだ。

「ご乗車、有難うございました」
 初乗務を終えた乗合春の声に、安堵の色がにじみ出ている。
 風林火山号は、定刻通りバスタ新宿に到着した。
 プシューと抜けるような音とともにドアが開くと、フード男は一目散に、トートバッグを抱えて千駄ヶ谷方面へと走っていった。
 他の乗客たちも、それぞれの場所を目指し、一人ずつバスを降りていく。そうして、与えられた役割をこなし、また別の場所に向かったり、元の場所に戻ったりしていくのだろう。
 直紀は、そんな生きた人間の営みを眺めながら、自分が成仏できなかった理由が、なんとなくわかった気がした。

 娘のために、なにひとつ力になってやれなかった。与えられるはずだった役割を、なにひとつ果たせないまま、自分は死んでしまった。
 それが、この上なく悲しく、悔しかった。

 そんな親の業のようなものが、成仏を阻んでいるのだとしたら、それは自分が、あの子の父である証拠なのかもしれない。

 直紀は、降車する乗客一人一人に頭を下げる娘を眺めながら、突然降って湧いたように、そんなことを思った。
   もしかしたら、亡霊として彷徨っていたあの時間がまるごと、自分を父親にしてくれたのではないか。
 都合のいい考えかもしれないが、その思いは直紀に、この手で一度も抱き上げることができなかった娘を、ずっと抱きしめてきたような、そんなあたたかい気持ちにさせた。

 満席だったバスの中は、あっという間に空っぽになった。
 乗合春は、空いた座席を指差ししながら、忘れ物はないか、丹念に確認する。そして無事、初乗務を終えることができたことに、手を合わせて感謝した。
 バスから降りるとき、春はもう一度車内を振り返る。
「よしっ!」
 確認を終え、清々しい気持ちで指差したその先に、もう直紀の気配はなかった。


 〈了〉



 今回、こちらの企画に参加しました。
 noteでの小説投稿は久しぶりで、とても緊張しました。
 こちらの記事に、主人公たちがどんなバスに乗っていたのか。設定の詳細が記されています。同設定で、様々な作品が投稿されています。

 豆島さん、どうもありがとうございました。
 限られた空間の中で、どうやって話を進ませるか、書いていてとても勉強になりました。この設定でワンシーンの短編に仕上げることは大変難しく、6000文字を越えてしまいました……。
 もし何か設定などで不備があれば、お知らせ頂けたら幸いです。

モミアゲ社長↓

 

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