漠然と思った日
私の母は、いろいろと世知辛いニュースが流れてくると、
「あぁ、長生きなんかしたくないわぁ」
と、よく言っていた。
しかし母は病気をしながらも、健康的な食事をしたりして、なんだかんだ身体に気を使っている。長生きしたくない、と口で言っていても、やはり長生きはしたいものなのかもしれない。
高校時代、職員室で、鳩のような目をした女の先生と、
「長生きしたいか、したくないか」
そんな話をしたことがあった。
私は長生きすることに消極的だったが、先生はその大きな目を輝かせ、
「長生きしたい!」
と高らかに言った。できることなら200年でも300年でも生きていたい。先生の大きな目が、そう語っているように見えた。16歳の私はその答えに、ただただ「凄いなぁ」と圧倒された。
私は当時から、不登校を繰り返すなど、集団生活や社会生活を送るのに難のある性質だった。自分に生きながらえるほどの精神力はないと思ったし、そもそも成人すること自体が嫌だった。できることなら、
18歳くらいで花が散るように死んでいきたい。
そんな乙女チックなことを、恥ずかしながらも、結構真面目に考えていたのだ。私がそんなことを考えたのは、悲劇のヒロインを気取りたいだけではなく、こんな面倒な自分を抱えて、長生きしたいと思えなかったからだ。この自己肯定感の低さは、如何ともしがたい。
世の中には贅沢にも、
「長生きなんてしたくない」
そんなことを言ってしまう人はたくさんいる。
老いていくと、どうしたって、身体機能は衰えるし、皺もシミも増える。白髪が増えたり、目がかすんだり、老化や衰えを感じると、やはりガッカリしてしまうものだ。
若い頃には当然だったものが、徐々に失われていくのだから、それは仕方がない。しかし、だからといって、
「長生きしたくない」
と言い切ってしまうのは、やはり傲慢なことなのかもしれない。命を自分の手でどうにかできる、どうにかしたいなんて思うのは、驕りなのではないか。そんなことを思う。
この命は果たして「自分のもの」なのだろうか。
命というものは、誰かの所有物ではなく、ただ「与えてもらったもの」なのかもしれない。もしそうだとしたら、素直に生ききって、この命を、きちんとお返ししなければならないのではないか。そんな気がする。
3月24日の今日、誕生日だというある方が、昨夜、「120歳まで生きる予定」だと、明るく綴っていた。私はその言葉を眺めながら、高校時代のあのときのように、
「凄いなぁ」
と、思い、是非120歳まで生きてほしいと、その方の長命を祈った。
「長生きしたい」「120歳まで生きる」
この言葉が私の耳には、
「どんな自分であっても、自分を大事にしたい」
そんなふうに聞こえてくる。その言葉の中に、自分自身に向ける、慈しみや愛があるように、私には感じるのだ。
高校時代、私は「長生きしたい」と目を輝かせた先生に圧倒され、そう思えない自分を、心のどこかで情けなく感じていた。
あれから30年近くが経ち、私は「長生きなんかしたくない」と思うよりも、できることなら「天寿を全うしたい」と思えるようになってきた。このままいけば、自分が赤いちゃんちゃんこを着るような年齢になった頃には、
「長生きしたい」
そう心の底から思えるようになるかもしれない。
私は今、漠然とそんなことを思っている。