スケッチをする人
この人に、自分が旅先で見てきた風景や感覚を移植したら、
どんな文章を書いてくれるだろう。
初めて、飛鳥大仏を見た時。奈良の室生龍穴神社の奥宮に行った時。
広島の原爆ドームを見た時。
どういうふうに書いてくれるかな、読んでみたいなぁ、と思う。
自分の好きな歌手に、
自分の好きな曲を歌ってみて欲しいと思うのと似た気持ちだ。
原井浮世さんのサンパウロの雨を読んだ時は、本当にゾクゾクした。
この作品から漂う色気はなんだろうか。
鉄格子、スコール、一人の日本人。そしてそれらを見つめる主人公の目。
退廃的な空気の中に佇む、一人の男が醸し出す匂いが
こちらの鼻先まで伝わってくる。
読みながら、一人で、「うまいなー、うまいなー」なんて言って、
私は揺れていた。私が生もとのどぶを飲んだ時の反応と同じである。
今、この記事を書くために、作品を読み返しているのだが、
私の脳内では、ウォン・カーウァイ監督が撮った
「サンパウロの雨」が勝手に絶賛上映中だ。
こういう時の私の妄想力の高さは、なかなかのものである。
◇
「うわー、勘弁してよー」
色節の島という作品を読んで、私は思わず声を上げてしまった。
これは原井さんが、旅する日本語2020に投稿された作品だ。
私も「色節」をテーマに作品を投稿したので、余計に勘弁してほしかった。
詩でもなく、エッセイでもない。不思議な感覚。
400字以内と感じさせない、自然な文章に驚かされる。
私も書いてみたからこそ、わかるのだが、
普段使い慣れない言葉と、400文字以内という制限は
文章の不自然を生みかねない。
私なんて、電車の座席の隙間にお尻をねじ込むおばちゃんのごとく、
「色節」をねじ込みましたよ。
絶対入らないズボンのボタンを無理やり止めて、
弾けそうになる寸前の状態で400字に詰め込んだと言うのに…。
この色節の島は、全てがそこにあるように自然だ。
そこにあるものが言葉となって、連なっている。
……あぁ、そうか、今書いていて気がついたのだが、
これはスケッチなのだ。
詩でもなく、エッセイでもない。
原井さんの文章は、スケッチだから、自然なのだ。
そういえば、原井作品の見出し画像は、
スケッチのような鉛筆画の時が多い。あのふわっとした鉛筆画が、
かえって作品に色を付けるのだから不思議である。
私も、スケッチしたい。心情を感覚を風景を。言葉でスケッチしたい。
無理のない表現で、無理のない感覚で、無理のない文章で。
私の旅の思い出を、原井さんに移植して書いてもらいたいと思っていた。
だけど、やはり、それは私が書こう。
私には私のスケッチがある。
…ただ、原井さんが、どんな鉛筆を使ってスケッチしているかくらいは、
教えてもらいたいなぁ、と思っているのだが、ダメだろうか。
うまいなー、うまいなー↓
お尻をねじ込み、ズボンのボタンが弾けそうな、私の「色節」作品