夫の気まぐれヘアカット
気温の激しい上昇に伴い、髪がうっとおしくなってきた。
幼少期はおかっぱ頭か、ベリーショートでならしてきたのだが、高校時代好きだった人が長い髪が好きという情報を聞きつけて以来、髪を伸ばすことが多かった。結婚してから二度ほど、ボブにしたことはあったが、この二十年来、ほとんどの期間をロングヘアーで過ごしている。
私が一番憧れたのは、ドラマ「王様のレストラン」で天才シェフ・磯野しずか役を演じたときの山口智子のロングヘアだ。きゅっとゴムで後ろに結ぶと、束ねきれなかった髪が、耳の後ろからするりと自然にこぼれてくる。その髪の毛が顎のラインを上品に隠し、やや丸顔の山口智子の顔が凛々しく素敵に見えた。
私は将棋の駒のように存分にエラが張っているため、このヘアスタイルにちょいっとした可能性を見出していた。簡単に言えば、後ろに結ぶだけでエラが隠れて素敵になれる。そんな魔法のようなヘアスタイルだと思っていたのだ。
最初は好きな男に見初められたい一心でロングヘアにしたが、そのうち、山口智子がしていたあのヘアスタイルが、めんどくさがりやの自分の性に合っている。そう思うようにになっていた。
美容院に行くときも、全体を軽くすいてもらい、束ねたときに顎のサイドに髪がかかるように注文した。それに私は、蛇のとぐろのようにうねる髪質ゆえ、イタズラに流行のヘアスタイルを追い求めることは危険極まりなかったのだ。なので私は二十年前の山口智子のヘアスタイルを、今も飽きることなく続けている。
しかし、某疫病がきっかけで、私の足は二年ほど美容院から遠のいている。さすがにもう美容院に行っても問題ないと思っているのだが、元来私は不精者で、最低限の見た目を保っていれば、細かいことは気にしない。そんな荒くれた無頼派なのである。
現在、そんな私の無頼を支えているのは、何を隠そう我が夫だ。
実は結婚以来、夫の髪は私が散髪してきた。
夫はその性格同様、適度にコシのある素直なストレート。素人の私でも切り損じしにくい、極上の髪質だ。三か月に一度は、私がハサミを振るう。今まで失敗をしたことは一度もない。いつも夫らしいヘアスタイルを心掛け、私は夫専属のカリスマ美容師として、その名を欲しいままにしてきた。
これを機に計算してみたところ、もし夫がずっとヘアカットを他でお願いしていたとしたら、何と12万円以上はかかっていたという数字を叩き出した。もし私が夫からヘアカット代を頂戴していたら、懐に12万円以上の現金が入り込んでいたのだ。う~ん、今からでも請求したいものである。
しかし、今更12万寄こせというのも、恫喝が過ぎるので、私は今、自分の髪を夫に切ってもらうことで手を打っている。
そして六月にしては異常な猛暑となったのを機に、夫の方から、そろそろ髪を切ったらどうかという打診があった。
夫は、シェフの気まぐれサラダ以上にきまぐれな美容師だ。夫の気分や都合のみで、ヘアカットしてもらえるかどうかが決まる。このチャンスを逃すと、次はいつになるかわからない。
私は実に一年ぶりに、髪を切ることになった。
部屋に新聞紙を引きつめ、脇には掃除機がスタンバイしている。おおよそ美容院とは思えない状態であるが、夫はカリスマ美容師の如く、やる気をみなぎらせている。
ジョギジョギ音を立て、私の髪は切られていく。
長いので多少修正はききやすいとは思うものの、絶え間ないジョギジョギ音に、やや不安になる。
「随分とハサミがうなってるじゃないの」
そう言って何気なく様子を伺うと、
「この程度でビビられたんじゃあ、オレの本領は発揮できないよ!」
夫は不服そうに鼻息を荒くした。
気分を害され、途中でやめられてもたまらない。私はただただ黙って、夫の不穏なジョギジョギ音に身を委ねることにした。
「うーん、なんか右が多いんだよなぁ」
「こっちが変にはねるなぁ」
「何かこっちが短いなぁ」
夫の漏らす言葉に不安ばかりが募る。
「もうそろそろいいんじゃない?」
などと言おうものなら、
「後ろに目が付いてないくせに余計なこと言わないでっ!」
と叱られる。もはや成す術がない。
不穏な空気の中、仕上がった髪を触ってみると案外悪くなかった。
「あら、なかなかいいじゃない」
と言うと、
「あったりまえでしょお」
夫はまたもや鼻息を荒くした。
その後、風呂場で髪を洗った。
髪が少なくなったことで洗いやすくなり、ドライヤーの時間も大幅に短縮された。こりゃ有難いと、私は盛大に夫に感謝の意を示し、
やれ、
「今から美容師になったらどうか」
とか、
「表参道のカリスマ美容師も真っ青な腕前だ」
などと、夫を褒め倒した。
「そうでしょうぉー!」
夫の鼻の穴は三倍近くに膨らませる。まさに得意満面である。
夫はご機嫌で、私も髪が軽くなり、めでたしめでたしとその日は就寝。そして猛暑の中、チュンチュンとスズメが鳴く朝になった。
私は髪を梳かし、いつものようにヘアゴムで髪を結んだ。
するとどうだろう。
毛先が東西南北に向かって縦横無尽にはねている。梳かしても梳かしてもはねる。それはまるで馬の如し。毛先が暴れ馬のように荒ぶっているのだ。
「毛先が聞き分けのない競走馬みたいに荒ぶってるんですけど!」
私がその惨状を訴えると、夫は涼しい顔をしてこう言った。
「うわぁ、跳ね馬みたいに暴れてる。さすが午年だねっ!」
私は昭和53年生まれの午年である。
自分の腕が悪いわけではない。あくまで私が午年だから、毛先が跳ね馬のように暴れているのだ。そう説き伏せられた。
私は不服を感じつつも、これ以上文句を言っても埒が明かないので、無言の抗議に終始するほかはなかった。
次はきちんとプロに切ってもらおうかな。
そう思いながら、はねる毛先をいじる。
しかし、不精者で無頼派の私は、また次回も、夫の気まぐれヘアカットにハサミを振るってもらいそうな気がしてならないのである。