あたまがもうろうとしている
メモを後になって見返したとき、何のために書き残したのだろう、と首をかしげることはありませんか?
なぜ、そんな問いを投げかけているのかというと、自分のnoteの記事一覧に、
「 あたまがもうろうとしている」
というタイトルの下書きを見つけ、ギョッとしていたからだ。
全てがひらがなで書かれてあるタイトルのひとマス目には、無意味なスペースがあいている。
そこが何とも不気味である。
改めて見返してみても、このタイトルで何を書こうとしたのか、全く思い出せない。
まるで、サスペンスドラマに出てくるダイイング・メッセージのようだ。このタイトルをタイピングしたとき、私は何を考えていたのだろうか。己が生み出した謎に、ただ震えるばかりである。
お盆も近い夏の今、こんなタイトルの下書きを放置したままでいると、更なる謎に引きずられてしまいそうで恐ろしい。謎が謎を呼ぶミステリーの増殖を抑えるためにも、このタイトルで無理やり、何か書いてしまおうと思うので、よろしければお付き合いください。
実は、1週間ほど前から私は、お風呂でのぼせたような状態が続いている。眠くもないのにまぶたが重く、後頭部がモヤモヤし、基本、ボーッとしている。
名探偵ポワロは己の頭脳を「灰色の脳細胞」と称しているが、私の脳細胞は今、溶けだした綿あめのように、べったりもったりしている。
つまり、どうにもすっきりしない日々を過ごしているというわけなのだ。
昨日、私は《トマト》にまつわる話を投稿しようと思い、その準備していた。(ちなみに私は、北野赤いトマトさんの「ドライブインなみま」という短編シリーズが好きだ。そして、トマトを輪切りにするとき、少しだけ後ろめたいような気持ちになるのは、トマトをまな板に置く度に、《北野》の名字が頭をよぎるからである)
私が投稿しようと思っていたのは、北のほうではなく、野菜のほうのトマトの話だったのだが、投稿するつもりで見返しているのに、一向に文章が入ってこない。
なぜか、読んだ文章が頭の中でバラバラになってしまうのだ。
例えば、
《ドライブインなみま》
という一連の意味を成す一文が、頭を通過した途端、
《ド ラ イ ブ イ ン な み ま》
といった感じで、粒になってわかれてしまう。筋子がいくらになってバラバラになっていくような感覚だ。
いくらなら、どんぶり飯にかけてワシワシかき込んでしまえばいいが、文章の場合はそうはいかない。きちんと筋が通っているか確かめるには、いくらを一粒ずつ眺めるよりも、筋子のほうが都合がいい。
だが私は、食べるなら筋子よりもいくらの方が好きだったりする。
綿あめだの、いくらだの、おまえは食いもんを絡めないと満足に話ができないのかと言われてしまいそうだが、物事が思うようにいかないジレンマをなだめるには、食べものに逃避するのが一番である。
福岡で活躍するタレントに、中島浩二という人がいる。
私は中島さん(通称・ナカジー)のことを、つい先日まで存じ上げなかったのだが、自分で豆板醤を作ってしまう凄腕の発酵職人である《ある方》が、私にこのyoutubeチャンネルを教えてくださった。
私は福岡飯に強いあこがれを抱いており、その中でも福岡の《とりかわ》は、私の心と目を奪う白馬の王子様のような存在だ。
この《とりかわ》を紹介した動画を見て以来、私は沼にはまり込むように、中島浩二チャンネルを見ている。夫に至っては見るだけに留まらず、中島氏がご馳走を食べたときに発する
「うぅぅぅーうまい!」
という一言を真似をするようになってしまった。
(ちなみに、添付した動画の12:20あたりで、中島さんが「うぅぅぅーうまい!」と言います)
私も夫と一緒になって中島さんの真似をしているので、今、我が家では意味もなく「うぅぅぅーうまい!」を連発するというカオスな状況になっている。
「 あたまがもうろうとしている」
という、ミステリアスなタイトルを回収したいがために筆を執ったものの、結局《とりかわ》に思いを馳せて、私は無駄にお腹を鳴らす羽目になってしまった。
とりあえず、何か食べて、思う存分
「うぅぅぅーうまい!」
とでも言い、今夜は休もうと思う。