読書の必須アイテム
台風がのろのろと通り過ぎたと思ったら、また暑さがぶり返している。
暑さが苦手な私は、長々と続く猛暑にほとほと参っているのだが、ここにきてつけっぱなしのエアコンのせいで、喉がいがらっぽい。だからといってエアコンを止めたら、暑がりの私は何もできなくなるので、喉には辛抱してもらい、連日エアコンの乾いた風を浴び続けている。
そんな私と違って夫は、暑さに強い。
強いがゆえに、エアコンがどうも苦手らしく、乾いた風から逃れるように、夫は隣の部屋で扇風機のみで読書をしている。ここ最近、夫に近年稀にみるほどの読書ブームが到来しており、老眼鏡をお供に日々、文字を追っている。
霜月透子さんの『祈願成就』を読んでからというもの、作中に書かれた名セリフである「あそぼうよぉ」をことあるごとに口にし、カズオ・イシグロの『日の名残り』を読みながら、主人公の執事・スティーブンスのことを、親しい友のように「ブンス、ブンス」と気安く呼んでいる。読み方としてこれが正解なのかはわからないが、愉しんでいるようで何よりだ。
そんな夫はつい先日、あの話題の名作、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読み終えてしまった。
「そろそろドストエフスキーに挑戦してみようかなぁ」
そう言い出したので、
「青空文庫に『罪と罰』があったから、すぐ読みたいなら、スマホのアプリ入れてあげようか」
と話したら、
「やだ。スマホじゃ、読んだ気しないもん」
と言った。
だからだろうか。
私も小説やエッセイをこうしてネット上に公開しているのだが、紙の本でないがゆえに、夫に見向きもされない。いや、もしかしたら私の書くものは、読む価値などないと、密かに思っているのかもしれない。
一度気に病むと、そうとしか思えなくなってくる。
私はひとりで畳の目をむしりながら、どうせどうせ……と盛大にいじけていた。
翌日。
このとき夫は、長いこと積読になっていた、ガルシンの『紅い花』を読んでいた。マリーアントワネットの《パンがなければお菓子を食べればいいじゃない思想》にならい、《ドストエフスキーがなければ、同じロシア文学のガルシンにすればいいじゃない》と思ったらしい。
私は思わず、
「紅い花もいいですが、花丸恵のほうもいかがでございましょう」
揉み手しながら、自作を勧めようとしたが、それを言おうと口を開けたとき、私の心は虚しさに塞がれた。
紙の本でなければ、夫に読んでもらえないことを思い出したのだ。
指が無意識に、畳の目をついばみ始める。
夫は私の書くものなど、読む価値などないと思っているのだ。もしかしたら紙の本にしたところで、手に取ることなどないのかもしれない。
そうやっていじけるうちに、徐々に憤懣やるかたない思いが湧き上がってきた。私は胸に蔓延るわだかまりを吐き出すように、こんなことを口にした。
「最近、本当によく『ご本』をお読みですねぇ。やはり紙の本はいいですよねぇ」
いじけると、言い回しまで卑屈になるものだ。
言葉だけ見れば、主人に仕える執事のように丁寧だが、私はこれを大袈裟に、わざとらしく言ったのである。
ガルシンの《紅い花》は罌粟の花ことだが、私の言葉は、真紅の薔薇の如く棘だらけである。
夫も、妻の言葉に刺々しさを感じたのか、文庫本に落としていた視線をちらりとこちらに向けた。喧嘩上等と咄嗟にファイティングポーズを構える妻を気にも留めず、夫はにっこり笑う。そして、
「読書といえば、やっぱり龍角散だね」
唐突に言った。
「へ?」
一瞬にして気がそがれる。
読書をするなら咳止めよりも、目薬のほうがいいのではないかと思っていると、
「ゴホン!」
夫が口許に軽く握ったこぶしを添え、わざとらしく咳をした。
今回、話題にさせていただいた『ご本』と著者の皆様。
現在、ガルシンの紅い花は古本でしか入手できないようなので、青空文庫を貼っておきます。短編作品です。