アベベの靴
「そろそろ靴を買い替えたらどう?」
夫が通勤時に履いていく靴が、どうにもくたびれてきた。一年近く前から、そろそろ靴を買い替えようと、夫はネットで検索し、出掛けたときに靴屋を見かけると、良さそうな靴はないか、眺めてはいたようだが、どうも、これ、といったものが見つからないらしい。
夫がここまで同じ靴を履きつぶすのは、初めてかもしれない。夫は靴にはうるさいほうで、あれこれ、横文字のメーカー名を口にしては、ここのは靴底が張り替えられるんだ、とか、こういった革靴は足になじんでくれるんだとか、話していた。
一時期は、山歩き用の靴に凝り、値の張る靴に手を出したりしていたこともあったし、靴の手入れをするのも苦ではないようだった。が、仕事用に買った安価な靴が足にしっくりきて以来、彼の靴に対するこだわりが、すっかり消えてしまった。
それにしても、今、私の目の前にある夫の靴は、くたびれ果てている。黒いスニーカーは、継ぎ目が擦れて白くなっていた。言うなれば、靴の上に小麦粉をこぼしてしまって、何とかそれを取り除いてみたが、ぼんやりと白さが残っている。そんな感じの疲れ方なのだ。
もしこの靴が、仙人であったなら、なにがしかの伝説を残してくれそうな、味のある風貌ではある。長く使っていると、そのものに神が宿るなんて言われているが、この靴がそういった付喪神になるにはまだまだ90年近い月日が必要だ。夫としても、別に付喪神にするつもりで履いているわけでもないだろうし、もしそのつもりだったとしても、子供のない私たち夫婦に、この靴を引き継いでくれる人はいない。
どのみち、買い換えるしかない。人間の命に限りがあるように、こういった消耗品にも、同じく限りがあるものだ。
「体力の限界!」
這う這うの体の靴から、そんな嘆きの声が聞こえてきそうである。私は再度言った。
「さすがに買い替え時だと思うけどね」
すると、夫は首を洗い立ての犬みたいにプルプルと横に振った。
「アベベだって裸足でマラソン走ったんだから、これくらい大したことないよ。まだ靴底がくっついてるんだから大丈夫、大丈夫」
1960年のローマ五輪を裸足で駆け抜けた、金メダリストのアベベ・ビキラ。
その雄姿はもはや歴史となりつつあるが、そんな英雄の話まで持ち出して、靴の買い替えを拒否されれば、私としては、もはや返す言葉はない。
若い頃の夫であれば、早々に靴を買い替えていただろう。あれこれ調べては、どのお店に行って買おうか、ワクワクしながら悩んでいたに違いない。その頃の夫が今の夫を見たら、何と思うだろう。
年を取ると、見てくれを気にしなくなる。
というより、世間の意識に固められたステイタスのようなものが、堅苦しく、色褪せて見えるようになる。こだわり、というものを持てば持つだけ、その分、肩が凝り、腰が張ってくるような気がする。
そういった意識に自分が合わせていくのではなく、自分にとってちょうどいいものが目の前に流れてきたら、それに気づいて、ヒョイとつかみ取るくらいがちょうどいい。そんな年になってきたのだ。
私自身は、昔の夫も、今の夫も、夫らしいと感じる。
かつて新しい靴を買うために胸ときめかせていた夫も、アベベを持ちだしてまで、今の靴を履こうとする夫も、価値観は変わったのかもしれないが、やはり夫は夫なのだ。変わっているようで、変わらない空気がいつも夫を包んでいる。
翌朝、夫がなおも、くたびれた靴を履いて出掛けようとたとき、
「あぁ!」
と声を上げた。
「どうしたの?」
私が訊くと、夫がつま先を指差した。その指先に視線を落とすと、靴のつま先から、夫の履いているグレーの靴下が覗いている。
宮城の方では、穴の開いた靴下から足指が見えている様子を《おはよう靴下》と呼ぶそうだ。何とも愛らしい呼び名であるが、まさに今、夫の靴のつま先から、靴下が「おはよう」と顔を覗かせていた。おはよう靴下ならぬおはよう靴である。
「これは、さすがに履いていけないよ」
まだ降っていないが、その日の天気予報は雨であった。このままアベベ気取りで出掛けようものなら、帰り道できっと後悔することになるに違いない。
夫は観念して、下駄箱から昔履いていた革靴を取り出して履いた。
「アベベも東京五輪のときには、靴を履いて走ったんだから、あなたも新しいのを買ったら?」
私が言うと、
「うん、そうする」
夫は言い、曇り空の広がる外へ飛び出していった。
1960年9月のローマオリンピックで、裸足で走って金メダルを獲得したアベベさんです。