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毒娘が猛牛の雄叫びを上げる


母が、脳血管の手術を決めた時、私に言ったことがある。

「せめて、あなたが40代のうちは生きててあげたいな、と思って」

そして、チラリ、と私の反応を伺うように、こちらを見る。
私が咄嗟に、こう思った。

いや、いや、頼んでないよ。
これ以上何も起こらないなら良いけどさ。

文章にしてみると、何ともひどい。
毒親という言葉が一般的に使われているが、
私の場合は、毒娘ということになるだろう。
私は家族というものに、辟易していた。

私の両親が離婚するきっかけになったのは
借金によって、住処を失なったからである。
その時、私は既に成人して結婚もしていた。
引っ越しの作業と並行して、離婚のための準備をしなければならず、
お金もなかったので、弁護士などを間に入れることもできない。
それらのことは、全部私がやった。
追い詰められていくと、感情的なやりとりが多くなってくる。
父親が家を買った不動産屋と言い争いになったり、
引越し先に荷物が入らないから、いらない洋服は捨ててくれと頼んでも、
アンタに私の気持ちはわからない!と母親にギャン泣きされたり、
んんもももももおぉおおおおお!
という状況であった。
もう20年近く前の話なのだが、未だに、んんもももももおぉおおおおお!
と、猛牛が、私の心で雄叫びを上げ始めるのだから
なかなか解消されない感情なのだろう。

「せめて、あなたが40代のうちは生きててあげたいな、と思って」

この一言を言われた時、グッと息が詰まった。
母の身に何か問題が起これば、私はまた傷つくことになる。
それを想像すると、気が遠くなった。
親が生きようとしていることに抵抗を感じるなんて、
私はなんてひどい娘なのだろう。自分の愚かさ、醜さが全身に染み渡る。
私は、この日、とうとう毒娘に堕ちてしまったのだ。

何故母は、
「せめて、あなたが40代のうちは生きててあげたいな、と思って」
ではなく
「せめて、あなたが40代のうちは生きていたいと思って」
と言わなかったのだろう。
生きててあげたい、という言葉に、
恩着せがましさを感じてしまうのは、やはり私が毒娘だからなのだ。

母は決して悪い人間ではない。むしろ、良い方に分類されると思う。
どこに出しても恥ずかしくない人だ。
母は、私と違い、仕事をすればきちんとしてるし、責任感もある。
社会性、人間力、精神力、全てにおいて、母の方に軍配が上がる。

母は悪くない。
ただ、騒動や問題が起こる世界の中に、私たち家族が放り込まれただけだ。
人間が、自分自身の業を開放するために生まれてくるものなのだとしたら、そのために必要な出来事だったのだ。

今、私は悪感情にさいなまれても、それを否定しないように心がけている。
思ったことを即、否定することは、自己否定につながると思うからだ。
これは井戸の底に落っこちて見えなくなってしまった自己肯定感を、
自力で引き上げるような地道な作業だ。
しかし、これがなかなか難しい。道徳に反するような気がしてしまう。
自分が悪い人間になっていくのではないか、と恐れてしまう。
しかし「嫌だ」と思ったことを受け入れてあげられるのは自分しかいない。
あぁ、嫌なんだなぁ、と自分のために、きちんと実感しておかないと、
自己否定だけがどんどん溜まっていってしまって、
自分の本心が見えなくなってしまう。
他人に消費されやすい自分を作ってしまう。

私は、井戸の底を覗き込みながら、言う。
「今、引き上げてやるから待ってろよぉー」
返事はまだない。
私は今ようやく、毒娘からの脱却を試みるべく、
自分自身に声をかけ始めたのだ。

お読み頂き、本当に有難うございました!