強くノックをして。
私はいつも何かを許したいし、許されたい。
他人がこれを聞けば、なにを?と思うだろう。
私にも未だに「何を」許したくて、許されたいのか実のとこを分かっていない。
無職になってからずっと取りこぼしてきたものが何であったか考えている。
その中である曲に出会った。
古川本舗さんの「Hail against the barn door」だ。
タイトルを直訳すると「雹が納屋のドアを激しく叩く」。
これにみなさんはどういった印象を受けるだろうか?
私は暗い部屋の中に閉じこもる誰かを怖がらせてしまうような印象だった。だって、たとえ明るい部屋に居ようとも突然外から激しくぶつかる音がしたら驚くでしょう?私はタイトルだけではそういった印象を感じてしまった。
実際、曲を聴くとなんともまぁ優しい歌声とギターの音。
↑これはトレーラーですがぜひフルでも聴いてほしいです。
4:48~流れる曲です。他楽曲ももちろん良いのでぜひ。
人は追い詰められたり、責められたり、怒られたり、失敗すると自分の世界に閉じこもることが多くあります。子供も大人も。それは正しい心の防衛機制だ。
古川本舗さんはこの曲に関するインタビューでこう答えています。
「実はこれまで3枚のアルバムを作ってきましたけど、そこに“閉じこもっている”というと言い過ぎかもしれないけど、あくまで自分は、その世界から出て行かない感じもしてて、それを崩したかった、というのもあったんです。時には一歩引くのではなく、矢面に立たなきゃいけないときもあるし、自分という存在を、世の中に対してプレゼンテーションしなきゃいけないときもある。そのためには、家のドアを開けなければいけない。」
引用:https://www.m-on-music.jp/0000096122/
私から見れば”古川本舗"という存在は才能溢れる人間であり、持つべく物を持ち、その才能を振る舞っている存在だと、自分とは違うのだと、勝手に線引きしていた。
しかし、芸術や何かを生み出すということは幾たびもの難産を超えた副産物である。とくに自分自身と向き合うことは。
彼もまた自分自身と向き合い、苦しみ、産みの苦を味わい生み出した存在なのである。
インタビュー内で語る彼を思い、「Hail against the barn door」に自分と重ねてしまった。
無職になり、働く気力も失い、好きだったことも、看護師を目指していたときのあの気持ちも失ってしまった。コロナで外出もできない、コロナ渦で看護師として現役で働く友人達は感染拡大防止のために簡単に遊ぶことはできない。インスタやTwitterで見る彼女達の愚痴は仕事のことで、それでも私から見ると”何か"をもっている彼女達が妬ましく思えた。
私は結果的に物理的にも精神的にも閉じこもるしかなくなった。
いつ差がついたのだろう。学生のときはせーのでスタートラインを踏んだと思っていた。卒業のときにはせーのでゴールテープを切り、それぞれのドアをせーので開けたと思っていた。私ばかりが二の足を踏んでいる。私ばかりが学習できていない。私ばかりが・・・私ばかりが・・・。
焦る気持ちと裏腹に徐々に動きが鈍っていくのが分かった。身体も心も。
そんなときに「Hail against the barn door」を聴いた。
お前も汚れ、みすぼらしく流れ流れ、
足掻き生きてるんだ。善いとは言えない。
・・・
お前は汚れ、みすぼらしくもまだ呼吸を止められない。
嫌とは言えない。言えない。
・・・
お前は汚れ、みすぼらしくもまだ
足掻き生きてるんだ。良いとは言えない。言えない。
古川本舗「Hail against the barn door」歌詞より
3回歌詞の中に出てくる”お前”への呼びかけ、もちろん私は"お前”に寄り添い聴いた。
みすぼらしくしみったれ、閉じこもることで心を癒やそうとした私。
人生をやめたくて、諦めたくて、許されたい私。
でも、呼吸は止められないのだ、思考すること、生きること、想像すること、作り出すこと。すべて止められなかった私がそこにはいた。
こんなにも何もないのに?こんなにも必要とされていないのに?
でも私は閉じこもった部屋で見つけてしまった。みすぼらしく震え、自分は可哀想だと信じてやまない甘ったれの自分を。
見つけてしまったからには、諭してあげたいし救ってあげたいのだ。しかし見つけてしまった私は部屋に閉じこもったと思っていたが、どうやらその部屋の中にさらに小さな部屋があり、小さな小さなドアの窓からその甘ったれの私を見つけたのだった。
自分を助けられるのはいつでも自分だ、自分の努力を生き様を失敗を一番近くで見てきた自分なのだ。だからこそ、そのすべての過去を見ようとせず、箱にしまい閉じこもり、膝を見つめる私に私は説教をしたくなった。
あんたの人生そんなことしている場合じゃない。あんたはもっとできる。あんたは確かに臆病で逃げ腰で生きてきたけど、そればっかりじゃないでしょう?前を向け、外へ出ろ、私が愛を込めて説教と抱擁をしてやる。
そう思い、鍵のかけられたドアをこじ開けようとするがドアは開かない。
石を拾い窓よ割れろと、力の限り石を放り投げる。
中に居たみすぼらしく甘ったれの私はひどく驚いたでしょう。
優しいノックの音で、私は再起しないことを私が一番知っているから。
さて、こんなにも強く激しいノックをされた私が、この先どうなるのか、どうあろうとするのかはまたこれから先のお話。
私を奮起させるのはいつも自分。全部を投げ捨てても、過去はいつも自分に追い縋る。
それは取りこぼしたものの代わりに得たものたちだ。
「人の選択はいつも等価だ。」
同じ分の価値でしかあり得ない。
そして過去はいつの時代も変えられない、ならばせめて、未来を明るい方へ歩を進めるしかないのだ。
私はいつも私にドアをノックしてほしかったのかもしれない。