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学芸美術 画家の心 第59回「エゴン・シーレ 首を傾げた自画像 1912年」
青白く痩せてギスギスし、しかも挑戦的な上目使い。気に入らない何かにギロリと睨荷をきかせている。
そして胎(はら)の底にため込んだ憤怒(ふんぬ)があるのか、髪の毛は天を突く勢いだ。
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いかにも恐ろし気なこの男、エゴン・シーレといい、このとき22歳。自意識過剰のナルシストだと言われている。
それに性に対して異常なほどの関心を持っており、性器をあらわにした裸婦像などの絵画が猥褻物(わいせつぶつ)とみなされ2回も街の住民から嫌われ追放されている。
また、幼女誘拐の疑いで牢屋に放り込まれたこともある。
さらには、彼はモデルの女性とはことごとく関係を持っていたようで、俺は女にもてると自身もあったのだろう。
何故これほどまでに性に関心があるのだろうか。
それはシーレの才能を評価し、師匠でもあり、経済的にも援助していた「ユディト」や「接吻」を描いたクリムトの影響ではないだろうか。クリムトは愛の画家と言われるほど男と女の抱擁シーンを絵にしていた。
シーレも大いに影響を受けたはずで、そのため多くの抱擁シーンの絵を残している。
そして、シーレは「表現主義」の画家として成長していくが、クリムト以外にも多大な影響を受けたのが、表現主義の祖、ヴィンセント・ファン・ゴッホで、彼を尊敬していたようだ。
この絵には、ヴィンセントへのオマージュだろうか、大きな耳が赤く塗られている(ゴッホの耳も赤かった)。
1918年、シーレ28歳のときクリムト主催の第48回ウィーン分離派展に50点以上の新作を発表するとその人気に火が付いた。作品は高額で買い取られ、シーレはウィーンの裕福層が住む13地区、ヒーツィング・ヴァットマン通り6番地に新たにアトリエを構え、順風満帆と思われていた。ところがこの年の10月31日、忽然と夭折する。死因は何だったのか?
彼の父はシーレが14歳のとき早死にしている。死因は梅毒だった。ということは母親以外の女性(娼婦?)と関係を持っていたことになる。
シーレも多くの女性と関係を持っていたが、死因は梅毒ではなく当時大流行していたスペイン風邪だった。彼が亡くなる二日前に妻のエーディト(師匠クリムトのモデルだった)が同じ病にかかり死んでいた。さらに悲しいことに妻のお腹には彼の子供を宿していた。
晩年と呼ばれるには早すぎる1916年、17年そして18年に描かれた絵画からはこの絵のような毒々しい表現は影を潜め、モデルの特徴を捉えた優れた肖像画を残した。このまま成長発展を続けたならどのような作品を残したのだろうか。
彼の死は、まことに無念で残念だ。
ただ彼の安らかな死を願おう。