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【いちリアル】生命誌と編集的暮らし
生命誌と「暮らしの編集」:未病を治し、持続可能な社会を築くために
「自在ゼミ」大乗部にて、中村桂子さんの「生命誌とは何か」をみんなで読みました。最近読んで影響を受けた坂本慎一さんの『西田哲学の仏教と科学』を下敷きにしつつ、考えたことを徒然に綴っていきます。私自身も、生命誌の視点から「暮らし」を見つめ直し、新たな医療と社会のあり方を考えるきっかけとなりました。
ここに記載する「編集的暮らし」という概念は今後、自分にとっても大きな命題になる予感がするため適宜加筆修正してまいります。
最終修正日:2025/01/17
はじめに:生命誌との出会い
38億年もの長きにわたって育まれてきた生命の歴史を、単に科学技術の分析や要素還元的手法にとどまらず、一つの“物語”として捉える「生命誌」という考え方は、私が日々の診療で感じている漢方医学や総合診療の世界観と深く響き合うところがあります。その背景には、近代医学が分断しがちな「身体と心」、あるいは「人間と自然」の隔たりを超え、生命全体の連続性を改めて捉え直そうという姿勢があるように思います。
私自身、漢方医として「未病を治す」という考え方を大切にしています。漢方医学では、人体を取り巻く環境との調和を重視しており、その観点から日々の診療を行っています。その中で強く感じているのは、人間が社会であり、自然であり、人間自身を取り巻く環境から常に影響を受けているということです。天候に関して言うと、季節の変わり目に体調不良が多くなったり、春にはめまい、夏には胃腸炎、秋から冬には咳をメインとした風邪が流行るなど、季節ごとに外来でよく聞く主訴が異なったりするのは一つの事例です。
このような自然環境と人体の密接な関係性についての知見を、より具体的な予防医学的アプローチとして活用するため、「編集的暮らし」という視点から検討したいと思います。
場所の哲学と生命誌的視点:個と全体をつなぐ「場」
この「編集的暮らし」を考える上で重要なのは、個々の要素を独立したものとしてではなく、相互に影響し合う全体として捉える視点です。このような「個」と「全体」の関係性について、日本の哲学には示唆に富む考察があります。特に西田幾多郎の"場所"や"絶対矛盾的自己同一"といった哲学的概念は、一見すると医療とは遠い領域の話題のように思われるかもしれません。しかし、漢方あるいは総合診療に携わる中で実感するのは、患者さんの身体・心理・生活背景といった要素が、切り分けられることなく一つの場所の中で相互に侵入し合っているという事実です。西田哲学における「場所」とは、単なる物理的な空間ではなく、矛盾するものが同時に存在し、相互に作用し合う動的な場を意味します。これは、生命誌が捉える生命の全体性、すなわち個々の生命が38億年の歴史の中で多様な要素を内包している状態と共鳴します。
西田幾多郎の“場所”や“絶対矛盾的自己同一”といった哲学的概念は、一見すると医療とは遠い領域の話題のように思われるかもしれません。しかし、漢方あるいは総合診療に携わる中で実感するのは、患者さんの身体・心理・生活背景といった要素が、切り分けられることなく一つの場所の中で相互に侵入し合っているということです。西田哲学における「場所」とは、単なる物理的な空間ではなく、矛盾するものが同時に存在し、相互に作用し合う動的な場を意味します。これは、生命誌が捉える生命の全体性、すなわち個々の生命が38億年の歴史の中で多様な要素を内包しているそのものです。
例えば、患者さんの訴えは単なる生理学的異常だけでなく、その方の生活苦や対人関係、さらには自然環境の影響までも包み込んでいることがあります。まさに矛盾するかのように見える複数の要素が、深いところでは一つの経験として重なり合って存在している状態と言えるでしょう。生命誌的視点で見ると、私たち自身も38億年の歴史を引き継いでいる以上、“個”という境界を持ちながらも、多様な祖先や自然の働きを内包しています。この“場”の捉え方は、現代医学が整然と仕分けしてきた領域をゆるやかに融通させ、より包括的なケアを実現するうえでも重要なヒントをくれるのではないかと注目しています。
生命誌が示す全体観と未病:生と死の連続性
このように生命を全体として捉える視点は、生命誌の見方からもさらに深い示唆を得ることができます。特に、生命誌で強調される「死の概念は必ずしも元来あったものではない」という指摘は強烈です。原始的な単細胞生物が分裂によって増殖していた時代には、死という明確な終わりがなかった──この事実は、人間が当然のように受け入れてきた生と死の境界に対する再考を促します。
このような生命の連続的な性質への理解は、私たちの健康観や医療のあり方にも新たな示唆を与えています。例えば、"未病を治す"という考え方は、まさにこの連続性を重んじるアプローチと言えるでしょう。病気として症状が顕在化する前の段階から、身体と心、生活習慣や自然環境とのつながりを総合的に捉え、ケアを始めていく。このようにして見ると、漢方が古くから重視してきた生命と自然界を貫く「気」という概念も、生命誌の視点に通じる包括的なものの見方と共振していることが分かります。この生命の連続性という視点こそが、「編集的暮らし」というアプローチへと繋がっていくのです。
まず、「暮らし」という言葉に注目したいと思います。...
編集的暮らしというアプローチ:夕暮れ時の内省から「はたらく」へ
この生命の連続性を実践的な医療の場で活かすために、私は「編集的暮らし」という視点を提案したいと思います。総合診療や漢方の世界観において、患者さんの症状は、その方の暮らし全体と切り離して考えることはできません。医療行為を受けるだけではなく、日々の習慣や食事、住環境、そして地域コミュニティとの関わり方など、自分自身の日常を一つの作品のように"編集"していくことが鍵になると考えています。
まず、「暮らし」という言葉に注目したいと思います。「生活」という言葉は明治時代以降に日本で定着した比較的新しい言葉であるのに対し、「暮らし」という語はそれよりもずっと昔から使われてきました。私たちは日常を表す言葉として、英語の“daily living”に相当すると理解しがちですが、“日が暮れる”という「暮」を中心とした表現を用いる意味は大きいのではないでしょうか。「暮らし」の語源を辿ると、“日が沈む”、“夕暮れ”を示す「暮れる」という動詞につながります。日本人が、日々の営みを“光”や“昼”ではなく、“暮れ”の時間帯、つまり夕暮れ時にフォーカスして表現している点は興味深い。人間が自分の内面を振り返ったり、はたらき終えて生を実感したりする象徴の瞬間が、夕暮れに重なるのかもしれません。
暮らしと苦しみ、そして「はたらく」こと:西田哲学における「行為」
そして興味深いことに、「暮らし」という言葉を眺めていると、日本語の持つ独特の特徴が見えてきます。日本語では古来より、似た音を持つ言葉には意味的な関連性があることが多く、「暮らし」と「苦しみ」もその一例と考えられます。シソーラスにおいても、「暮らし」には"苦しみ"という概念が含まれるとされています。西田幾多郎は「哲学は悲哀から生まれる」という言葉を残していますが、この洞察は「暮らし」という言葉の持つ深い意味とも共鳴します。生きることには痛みや悩みが伴い、その悲哀こそが私たちを深い思索へと導くのです。これは仏教における"一切皆苦"の考えとも通底しており、苦しみを含めて日常の営みと捉える姿勢と言えるでしょう。
ここで、「はたらく」という言葉に注目することで、西田哲学との繋がりがより明確になります。西田は、単なる物理的な運動ではなく、自己と世界との関係性を変容させる能動的な行為を重視しました。これは、「場所」の概念と深く結びついており、「はたらく」ことは、自己が「場所」の中で世界と関わり、自己自身を形成していく行為と言えます。「はたらく」は「傍(はた)を楽にする」ことに由来するとされています。つまり、自分自身のためだけではなく、周囲を少しでも楽に、安らぎのある状態へ導く行為です。これは、西田哲学における「行為」の概念と呼応し、自己と他者、自己と世界との繋がりを意識した能動的な関わり方を表しています。実は、こうして誰かや何かのために動くことで、はじめて自分自身の存在を深く実感できるという側面があります。“はた”を楽にするのは人間同士だけに限らず、自然界全体との関係も含めて、周囲を整え、余裕を生み出すことだと考えています。ここでいう“編集的暮らし”は、自分自身を癒すだけでなく、“場所”全体、すなわち“はた(周囲や自然)”に対しても癒しや調和を生み出す方向へ“編み直す”行為にほかなりません。
暮らしの編集から未病を治すとは
これまで見てきた「暮らし」という言葉の重層的な意味─夕暮れの内省的な時間、生きることに伴う苦しみ、そして「はたらく」ことによる自己と世界との関わり─これらは全て、私たちの日常をより深く理解し、編集していくための重要な視点となります。このような暮らしを多面的に捉え直し、必要に応じて編集していくことは、私が漢方医や総合診療医として大切にしている"未病を治す"という考え方にも直結します。
しかし、ここで注意したいのは、「編集的暮らし」は単なる予防医学的なアプローチとは一線を画すということです。病気として大きく症状化する前に、日常習慣や食生活、心身のコンディションを微調整することは確かに重要ですが、それだけでは従来の予防医学の域を出ません。
私たちが目指すべきは、「Daily living」という言葉で表現される日常生活の捉え方そのものを根本から変えていくことです。夕暮れの時間が教えてくれる内省的な視点、「苦しみ」をも包含する生の全体性、そして「はたらく」ことを通じた世界との関わり─これらの視点を統合した新しい暮らしの在り方を模索すること。それこそが「編集的暮らし」の本質ではないかと考えています。
編集的暮らし:持続可能な社会のために
このような編集的暮らしは、単に自分本位な幸せを追求することではありません。"はた"を楽にするという"はたらき"を意識すれば、自ずと自然との共生や地域コミュニティとの連帯も視野に入ってきます。これはまさに、持続可能な社会を築く上での根源的な力となるはずです。編集的暮らしは、自分だけではなく、家族や友人、ひいては自然環境や社会全体をもっと楽に、息がしやすい状態に変えていくための方法論でもあります。
「生活」よりもさらに深く、"夕暮れ"の時刻を象徴的に含む「暮らし」という言葉には、西田幾多郎が示唆した「哲学は悲哀から生まれる」という洞察とも呼応する、一切皆苦の中で人間らしく生きようとする仏教的視座が垣間見えます。そして、悲しみや苦しみ、そして死すらも生命全体の連続性の中に位置づけようとする「生命誌」の考え方は、この"暮らし"へのまなざしと互いに響き合うのです。
おわりに:医療の概念工事と編集的暮らしの実践
生命誌が掲げる38億年の生命の連続性という視点は、近代医学が分割してきた諸領域を超える新しい地平を拓くのではないかと。この全体的な視点は、西田哲学における「場所」の概念や、総合診療・漢方医学で培われてきた"未病を治す"アプローチとも深く共鳴し、要素還元的な見方では捉えきれない生命の全体性への理解を深めてくれます。
そこに「編集的暮らし」という実践的視野を重ねることで、個々人が自分自身を癒し、心身の健康だけでなく、人間と社会、自然環境に至るまでの調和を目指すことができるのではないでしょうか。夕暮れの静けさがもたらす内省、暮らしに潜む苦しみへの向き合い方、そして"はた"を楽にするという働き方─これらを意識的に編集していく営みは、"一切皆苦"の上に成り立つ私たちの日常を、より持続可能で豊かなものへと再構築する力となるはずです。
医療の枠組みを超えたさまざまな学問領域や生活文化との対話が生まれ始めている今、この「編集的暮らし」という実践を私自身のライフワークとして育んでいきたいと考えています。それは単なる研究テーマではなく、生命の連続性への深い理解に基づき、一人ひとりの暮らしの質を高める営みとなるでしょう。この実践を通じて、より多くの人々と共に、持続可能な共生の道を探っていければと願います。