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苦しいときに手を合わせてみる

ことしは取り巻く環境が大きく変わり、何かと苦しい1年でした。
やることなすこと、なかなか形にできない。苦しさを話す相手がいない。

もどかしい思いを抱きながら、それでも何とかやっていたつもりでしたが、やがて寝付くのに時間がかかるようになり、秋になると、ついに体調を崩してしまいます。体は正直です。

そんな私が、手を合わせることで少しだけ気持ちの整理ができた、という記録です。

どうやら「八方塞がり」

体調が少し良くなった頃、外出先でたまたま会ったお世話になっている人に、ことしはしんどいです、と打ち明けました。世間話のつもりでした。黙ってきいていた相手は、おもむろに生まれ年を尋ねてきます。それに答えると、相手の表情がくもり、

「ことしのあなたは八方塞がりだよ」

こう教えてくれました。なるほど、良くないことが続くはずだ。普段、この手の話は聞き流しているのですが、このときは不思議と腑に落ちました。

伝えてますか、最近のこと

じゃあどうすればいいのか。お祓いの話でもされたらどうしよう。身構えましたが、相手の話は、最近、ご先祖さまに手を合わせているか、というものでした。

正直、どきりとしました。

以前は、両親と春、秋の彼岸とお盆には墓参りならぬ、お寺参りにいくのが実家での数少ない年中行事でした。ただ、母親が病に倒れて体が不自由になり、追いかけるようにコロナ禍がやってきて、この5年ほどは行かなくなっていました。気持ちのどこかで後ろめたさがありました。

…そして、頭をよぎったのは「サッカーで優勝したよ!」に続く「伝えてますか、最近のこと」というナレーション。往年の某道内ローカルCMです。懐かしい。

彼岸や盆ではない時期にお参りしたことは、一度もありませんでした。何でもない日にお寺に行っていいものなのか、というレベル。ひとりで足を運んだこともありません。

さらには霊的な話が苦手で恥ずかしくも、なんとも言えない恐怖心がありました。ただ、現状を少しでも打破したい、気持ちに区切りを付けたいという思いがまさり、その週末、私は実家があるまちのお寺にいました。

ひとりお参り初体験

お寺に参拝客の姿はなく、住職も不在のようでした。ひとり電気を付け、ひんやりとした納骨堂に入り、持参した地元の銘菓と、切り花を切り詰めて飾り、ご無沙汰してしまったことを詫び、現状報告と苦しい心境を報告しました。そして、都合が良いとは分かりつつ、今後展望が開けるようお願いするのでした。

翌週には札幌にいました。札幌には母方の親類が眠るお寺が二つあります。切り花は少しでも長持ちさせようと、札幌に着いてから大型スーパーにある生花店で購入。地元と同じく、久しぶりのお参りを詫び、近況報告をして手を合わせてきました。

よりどころ、居場所ははある

気持ちに区切りが付いたか、といえば、よく分かりません。心の荷は少し降りたように思います。信心深さが足りないのかもしれません。

私は環境が変わったことで「よりどころ」「居場所」がなくなってしまった、ひとりぼっちになってしまった、と考えていました。でも、たとえ答えは返ってこなくとも、自分の心のありようを報告する存在があるという事実は、心を少しだけ軽くしてくれました。

その後、目立った前進は出来ていないし信心深くなることもありませんでしたが、年を越す前にもう一度、お参りに行ってこようと思っています。

追記 2024年12月28日にお参りしてきました


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はなふさふみ
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