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文学碑ガール  第1章(全3章) 短編小説


第1章

 墨を降らせたように地は暗く、光の泡沫を散りばめたように天は明るい。川崎は都内で借りたレンタカーのエンジンを止めてヘッドライトを落とし、背伸びをした。数時間のドライブにて疲弊した背骨が鳴った。隣には、同じ学部の秋山がシートを寝かせて、リズムの狂った鼾を奏でていた。

「秋山、着いたよ。起きろよ」

 川崎は秋山の肩を揺すった。

「お。もう着いたのか」

 とぼけた声を出す秋山は、瞼を数回こすった。

「バカ。秋山はずっと寝ていただろう」

「悪い、悪い。帰りは俺が運転するさかい、許してなあ」秋山は川崎の肩を数回叩き、宥めた。「さあ、旅館へ行こう。チェックイン時間を大幅に過ぎてもうた」

 二人は車を降り、トランクから荷物を下ろした。

「はー、凄い音やな」

 秋山が眠気を吹っ切るような歓声をあげる。

「うん。暗くてよく見えないけれど、もの凄い音だね。この川の上流には、あの河津七滝があるんだよなあ」

 川崎も歓声を上げ、二人はガードレール越しに、荒ぶる水音が鳴る清流を覗き込んだ。暗闇を激しい清流が流れる。眺めていると、肉体も魂も清流へと吸い込まれ、中伊豆の自然へ蕩け合ってしまうようだ。

「さてさて、旅館へ行こう」

 ガードレールから手を離し、川崎は旅館へ続く上り坂を登った。秋山は川崎を追った。

 旅館入り口の照明がぼんやりと闇を照らしていた。夾雑物を排除し、純和風の色彩を随所に散りばめ、風光明媚な地にて時代を俯瞰してきた旅館は、大学生の男二人の前に屹立した。それは、厳かで、嬉しそうに微笑んでいるようでもあった。

「こんばんは」

 川崎が古風な引き戸を開くと、ガラガラと洗練された音が鳴った。薄暗い館内へ、川崎の声が吸い込まれ、そっと消えた。

「静かやな。旅館の人はいーひんのかいな?」

 秋山は不安そうな声を出す。すると、

「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。ようこそ」奥からエプロン姿の女将が現れた。「長旅、お疲れ様でした」

「こんばんは。予約しています、川崎です」

「川崎様ですね。お待ちしておりました。どうぞ」

 女将が丁寧にお辞儀をした。川崎と秋山はお辞儀を返し、用意されたスリッパを履き、館内を進む。

 時に取り残されたような館内だ。薄いベニヤ板が狭い廊下を作り、勾配の急な階段が続く。男女共用トイレには白熱電球が輝く。

「こちらへどうぞ」女将が二人を部屋へ案内した。「今日はお客様お二人以外の宿泊者はいらっしゃいませんので、どうぞごゆっくりして下さい。先にご飯を召し上がりますか? もう、準備は済んでおりますから」

「はい」

 二人は声を揃えて言った。

「では、一階でお待ちしております」

 女将は扉を閉め、一階へ向かった。秋山は部屋の随所を物珍しそうに眺め、指先を触れ、時の遷移を堪能した。

「情緒溢れる旅館やな。この壁の染みなんて、いつの染みやろか。窓からは隙間風が入ってきてるわ。ほれ」

 広縁へ立つ二人は、隙間風を頬で感じつつ、窓から広がる真っ暗な闇を眺望した。川の激しい水音が広縁迄も入り込んでいる。

「隙間風も川の喧騒も、この旅館ならではの味わいやろう。都会のホテルなんかでは、味わうこと出来ひん。これこそ、日本の情緒やな。古臭い日本男児の俺らには、ぴったりな場所ってわけや」

 秋山は笑顔を零した。

「おいおい。僕も古臭いのかな?」

 川崎は秋山の背中を叩いた。

 二人は浴衣に着替え、一階の客間に入った。座卓の上には伊豆産の山の幸と海の幸が並び、空腹の二人を魅了する。

 二人が対面で座ると、老成した大女将が襖を開けて現れた。

「ようこそ、いらっしゃいませ。お飲物は何になさいますか?」

 川崎と秋山は瓶ビールを飲むことにし、大女将へ伝えた。大女将が席を離れ、瓶ビールとグラスを持ち、戻ってきた。

 川崎と秋山は互いのグラスへビールを注ぎ、乾杯をした。

「お客様は残念ですね。今年は暖冬でしたので、例年よりも桜が早く散ってしまいましてねえ。いつもこの時期ですと、河津川沿いは満開の桜並木が見ることが出来るのですがねえ。それはそれは、美しい。その時期は、たくさんのお客様がいらっしゃいますよ。お二人はどちらからお越しですか?」

 大女将が二人へ尋ねた。

「都内からです。俺ら同じ大学でして、日本文学を専攻しているんです。中伊豆は川端康成先生が愛した地やて聞きまして、やってきたんです。川の音凄いっすねえ」

 秋山は瞳を輝かせた。

「ほんと良い所ですね。この近くに、伊豆の踊子文学碑もあるんですよね?」

 川崎が尋ねる。

「ええ、川を超えたところに、文学碑がありますよ。お若いのに、川端康成先生がお好きとは珍しいですね。そこの廊下の奥の方に、川端康成先生らの写真が飾ってありますから、ぜひご覧下さい」

 川崎と秋山は目を合わせて、ニヤリを笑った。大女将はお盆を持ち、席を離れた。

「凄い場所に来てもうたなあ。美味しい料理を食べながら、亡き文豪へ思いを馳せる。これぞ贅沢の極みや。桜が見れへんのは残念やけど」

 酒に弱い秋山の頬は、河津川に散った桜を貼り付けたように薄く色付いていた。秋山のグラスが空になり、川崎はビールを注いだ。

「川端康成先生を含め、偉大なる文豪方が降り立った伊豆の地。なんか、感慨深いなあ。しかしながら、憧憬の天城越えについては、車であっという間に通り過ぎてしまい、呆気なく終わってしまった。辛さを経験出来ないのは、残念だけれどね」

 川崎は刺身を口に入れ、丁寧に咀嚼する。

「それほど、文明が進んだってことやろうな。一長一短、一得一失・・・」秋山は寂しそうにビールを飲み、山菜の天ぷらを食べた。「どうや? 文豪が愛した伊豆の地で、新しい小説は書けそうか?」

「まだまだ、来たばかりで分からないさ。踊子を呼んで、小説の糧にしたいものだね」

「現代に踊子はいるんか?」

「いないだろうなあ。もし居たとしても、しがない文学部の学生が呼べるものではないと思う。金がいくらあっても足りない」

「それも、そうやな」

 秋山は哄笑し、空になった互いのグラスにビールを注いだ。川崎も陽気になり、軽やかに哄笑した。

 食事を済ませ、千鳥足になりつつ風呂へ向かう。すると、廊下に飾られた写真が二人の目に入った。

「おー、これが女将が言うとった、川端康成先生の写真かあ。キリッとした先生の視線に魂を抉られるなあ。ほんま凛々しいわ」

 秋山は持っていたバスタオルを投げ捨て、写真の額を握りしめて見入った。秋山のあどけなさが残る柔和な垂れ目が、若干勇猛になった。

「格好良いなあ。正統派の日本男児って風貌だなあ。先生が写真から飛び出してきそうだ」

 川崎も秋山と同様に写真を見入った。

「なあ、飛び出してくれて、俺らの大学で教鞭を執ってほしいな。大学の講義が楽しなって、仕方があらへんやろうなあ。毎回、最前列で講義を受けるで」

「秋山はいっつも後ろで、寝ているからね」

「川崎も同じやん」

「僕は寝ていないよ。一応起きてはいるさ」

「同じようなもんやん」

「さあ、風呂へ行こ」

 二人は浴室の扉を開き、裸になって温泉に浸かった。都会で溜め込んだ煤を流し去り、本来の肉体美へと回帰するように、伊豆に湧く温泉が二人の身体を清めてゆく。筋肉質の川崎と、薄っぺらで華奢な体付きの秋山。酔いを醒しつつ、川から流れ込む春の香りを鼻腔で味わった。

 部屋に戻り、座卓を囲む。座卓の上には、道中のコンビニエンスストアで買った缶ビールやウイスキー、柿ピーなどのツマミが乱雑に広がり、脇には川端康成の著書が置かれている。秋山側には、『古都』を。川崎側には『伊豆の踊子』が。それらは、二人の愛読書だった。

 二人は酒やツマミを口にしつつ、伊豆の逗留を堪能してゆく。

「気障っぽい言い方やけど、川端康成先生がいーひんかったら、俺らの友情は生まれんかったんやろなあ。そして、東京の地でそれとなく大学生活を送っとったんやろなあ。何となく講義出て、何となくバイトしてみたり、何となくサークルに入ってみたり、何となく恋愛してみたり・・・」

「本当に驚いたよ。僕と同じくらい川端康成先生を愛している大学生がいるなんてね。地元じゃ、皆無だったからなあ。川端康成先生様様だ」

「俺の京都でも、皆無やった。こないに素晴らしい文学を何で分からへんねん」

 苛立ち込めて座卓をバシバシ叩く秋山は、眉間に皺を寄せて無念の仮面を被った。

「まあまあ、どの大学も文学部を謳って、学生を呼んでいるけれど、こんな世の中に文学が必要かって言われると、曖昧だね。文学がなくとも、生きていける」

「おいおい、小説家を目指す川崎が嘆いたらあかん。川崎は川端康成先生を超える文豪になりたいんやろう。それやったら、文学を分からんやつらに、本物の文学を押し付けていかんと、あかんやろ」

「そうだけれどな・・・」川崎は小説をパラパラと捲った。「秋山は大学卒業後の進路はどうするの? 小説家?」

「俺は川崎と違うて、文才があらへんさかい、そこらへんにある一般企業に就職すんで。やりたい仕事はまだ見つかってへんけど。京都に戻るかも知れん。仕事の傍で文学を堪能する人生になるんやろな」秋山も小説をパラパラ捲った。「まあ、正直言うと出版社へ入りたいんやけど、厳しいやろなあ」

 秋山は小説を座卓に置き、溜息が滲み出るような詰まらなそうな表情を浮かべ、酒を飲んだ。

「何故、厳しいと思うの?」

「俺が売りたい本、作りたい本は、こてこての純文学やさかい。そう、川端康成先生が書くような、コテコテの純文学。勿論、川崎の書いた小説も、それに該当するんや。
 そやけど、見てみぃ。あないな高尚な文学が巷に溢れてるか? 端に追いやられてもうて、無残な姿やろ。もし、入社出来たとしても、幼稚な駄文と付き合うて、魂を捨てた作家に諛うのは勘弁して欲しいわけや」

「なるほどなあ。何となくだけれど、分かる気がするよ」

「せやろ。ゼミの連中を見てみな。日本文学専攻って言うても『何とのう文学齧ってます』って奴らばっかりや。単位のためだけ、日本文化を食い物にしとるんや。許せん」

「批判するのは気が進まないけれど、何となく文学を齧っている学生は多いと思う。学生問わず。現代で文学を心の拠り所にする風潮は、過疎化する地方のように寂れてしまった。文学が生活必需品というわけじゃないからなあ」

「あほ。川崎が弱音を吐いててどないするんや。例え、人類が俺ら二人になっても、この文学の火を絶やしたらあかん。それくらい、文学は必要なんや。この旅館も、文学と同じ。華やかちゃうけど、日本の情緒が詰まってる。風の匂い、川のせせらぎ、穏やかな気候・・・、全てが中伊豆に詰まってるんや。そやさかい、川端康成先生はこの地で、作品を書き上げたんや。日本が高度経済成長してゆくなかで、日本人の心の退廃を嘆き、風光明媚なこの地を訪れて文学を残されたんや」

「川端康成先生の意思は、僕に分からないけれど、現に河津川のせせらぎを聞いていると、心が洗われるなあ。初めは少々煩く聞こえたけど、今はクラシック音楽を堪能しているように心地良く感じる。秋山の言う通り、ここには日本人の心があるような気がしてきたぞ」

「そうそう、川崎文学を伊豆地で開花させるべきや。書きあがったら、一番に読ませとくれな」

「勿論さ」

 二人は座卓越しに手を強く握り、そして離した。一瞬の握手は、刎頸の交わりを揺るぎないものとする、時を超えた儀式のようだった。時代の波を知らない無垢な大学生の傍若無人な願望であり、大和魂の刃を握りながら時代に逆行する二人の闘争心であった。

 座卓を端に追いやり、堅い寝具に身を預けながら続く二人の会話は、落ちていく夜を抱きつつ、濃くなっていった。文学から始まり、地方創生、政治、哲学、それから恋愛、結婚観、最後には川端康成先生の賛美、これらを幾たびもループしていた。


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花子出版    倉岡



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