金閣寺を読むのまとめ 花子出版
令和五年、本年の最後の記事になります。
本年前半は、休眠の出版社でしたが、後半から息を吹き返し多くの記事をかいてまいりました。
長々と花子出版の駄文にお付き合い頂きありがとうございます。
『金閣寺を読む』を書き始め、ようやく最終章に辿り着きました。記事を書きながら読書感想文を書くわけでありますが、何気なしに本を読む行為とは、少し感覚が違いました。梗概を書くので、詳細と全体像を考えながら筆を進めていきます。
これまでの読書では見落として部分がかなり洗い出され、とても有意義だと感じております。
さてさて、金閣寺を読んだ総括を書きます。
金閣寺焼失という事件を題材を元に、三島由紀夫先生は筆を進められています。創作ではありますが、至る所に自身の体験や思想が色濃く露呈していると読み取れます。
以前の記事で書いたと思いますが、三島由紀夫先生が、終戦の詔勅を聞かれた夏の日。この日を、とあるインタビューで次のように述べておられます。
「戦争が済んだら、あるいは戦争に負けたら、この世界が崩壊するはずであるのにまだまわりの木々の緑が濃い夏の光を浴びている」
「濃い夏の光・・・」
なかなか口に出る言葉ではありません。三島由紀夫先生の瞳には、夏の光が、激しく突き刺さったのであり、そしてその日を原点にして金閣寺が描かれたと思いますと、とても考えさせられます。
戦死する仲間があり、戦争に行けなかった劣等感があり、死への恐怖と、死ねなかったことへの恐怖、世界崩壊の規定事実が謬説であったことへの焦燥と苛立ち、このような錯綜する多くの考えを、少年だった三島由紀夫先生は、金閣寺の主人公である溝口と同様に受け入れるしかなかったのであります。
主人公が吃音症なのも、先生の幼少期の脆弱な身体と酷似しています。
「もし・・・」という仮定の話をすると、些か本末転倒ではありますが、
・もし、三島由紀夫先生が、生まれつき屈強な肉体を持っているのなら・・・。
・もし、戦争がなかったのなら・・・
・もし、金閣寺が燃える事件がなかったのなら・・・
・もし、金閣寺がそもそも美しくもない、安普請の寺だったのなら・・・
この小説が生まれなかったわけであります。
更には、私がこの著書『金閣寺』に出会わなかったら、このような記事を書いていません。これは、先ほど述べました太古から決められていた規定事実としかいいようがない気がして仕方ありません。
このように、森羅万象と自分の関係性を深慮する小説が『金閣寺』であると、私は考えて読みました。
以上が読書感想です。
さてさて、『金閣寺を読む』の最終章を書き終える前、実際に京都へ出かけて、本物の金閣寺を眺めました。
観光客が溢れ、お祭りのように賑わっていました。もしかすると、『金閣寺』に書かれていた戦後と賑わいと、感染症明けの賑わいが似ているのかなあ、と不謹慎にも考えていました。人々のやり場の鬱積した感情の解放の聖地、それが金閣寺の美しさ。そうなのかも知れません。
また、金閣寺の頂きに留まっている鳳凰は、天に飛び立つときが来るのだろうか、と哀れんでしまいます。金色に輝いていますが、羽を捥がれた飛べない鳥なのです。うーん。
記事は以上になります。
皆様、良いお年をお迎えください。花子出版は来年も頑張って記事を紡いでいきます。
花子出版 倉岡 剛
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