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雲の影を追いかけて    第9章「後半」全14章



第9章「後半」

 裕と祥子は、病室に入った。和夫はベッドを少し起こし、形あるものを捉えず、混沌とした瞳で窓の外を眺めていた。白い髭が生える口は半開きになり、途切れそうな呼吸をゆっくり続けていた。腕には点滴から伸びるパイプが複数繋がり、流動食の代わりに生命を維持する栄養が齎されていた。

「父さん、来たわよ」

 祥子は和夫の耳元で話しかけた。和夫の表情は動かず、祥子の声に反応がない。

「今日も返事はないのね。仕方ないわ」

「うん。別の世界を覗き見て、別の世界を生きているようだ」

「私、主治医と話してくるわ」

 裕が頷くと、祥子は病室を出た。裕は椅子に座り、和夫と同じように外を眺望した。階層の高い病室からは、街の景色を一望出来る。遠くには、夜勤明けをのんびりと過ごした懐かしい河が流れる。ビルの間には、網目状に道路が敷かれている。空には雲がなく、澄んだ青色が何層にも重なっていた。小鳥が羽ばたき、裕の視界を横切った。すると、

「裕君」

 乾いた声が病室に響いた。裕は振り返り、和夫を見た。和夫の目に力が蘇り、焦点がぶれることなく、二人は眼を合わせた。

「和夫さん。話せるようになったのですね。良かった、本当に良かった」

 裕は氷のように冷たい和夫の手を握りしめた。

「ああ、入院した当初から話すことは出来た。だが、言葉を発したくなかった。話しても悪足掻きにしかならないし、言葉を発すると凄く疲れるからね」

「無理しないで、ゆっくり休んで下さいね。元気になって、早く退院しましょ」

「そんな訳にはいかない。わしは、もう直死ぬ事になる。最後に少しだけ、裕君と話をしたくなってな。枯渇する最後の力を振り絞っている訳だ」

「死ぬ? それは、何故分かるのですか?」

「言葉では言い表せない。『その時が来たようだ』としか言えない」

「僕に、何か出来ることありますか?」

「『月の雫』の最終章を読み上げて欲しい・・・」

 和夫は、枕元にある本を手に取り裕へ渡そうとしたが、指先に力が入らず、本はベッドの上に落ちた。裕は本を拾い上げてページを開き、最終章を読み始めた。自分の書いた文章を音読する経験はなく、吃り調子になるももの、意識して穏やかな声を発した。


 最終章の二ページ目に差し掛かった。裕の音読が流暢に流れ始め、病室の一室に物語が生まれ始めた。

「ありがとう、裕君。もう大丈夫だ。とても良い話だった。三途の川を渡る際、魂の支えになりそうだ」

 和夫は瞼を開け、外の景色に眼を向けた。裕は本を閉じて、和夫の枕元に置いた。

「裕君。祥子のことをどう思っているのかな?」

「えっと。唐突な質問ですね」

 裕はしどろもどろ返事をした。

「勿論、好きですよ。一緒に居ますと楽しいですし、祥子さんが作る料理は美味しいですし。僕が執筆に専念出来るのは、祥子さんのお陰ですね」

「裕君。死にいく老人に、偽りの言葉を残す必要はない。ワシには、今更、他人を叱責する元気も気力もない」

 裕は息を飲んだ。息だけではなく、和夫の眼光が、病室を明るくし、裕の心の深い闇に転がる小石までも照らしそうなほど眩しくなった。

「人生は長いようで、非常に短い。本当に、あっと言う間に終わる。老人になり、死を目前にすると、大きく深呼吸をする時間と、生まれてから死ぬまでの時間とが、同じ時間のように思える。呼吸では、微塵の埃を吸い込む。人生では瑣末な夢と現実を交互に吸い込む。人生は一瞬だ・・・。
 裕君の生きたいように生きたら良い。一昔前なら、個人の幸せを追求することは恥じるような風潮があったかも知れない。だが、良くも悪くも個人の幸せを求める時代に突入してしまった。だから、裕君も自由に生きなさい」

「自由?」

「その通りじゃ。もう直、ワシと同じように祥子は足腰が弱り、そして介護が必要になる。森羅万象、美しい物に永遠はない。ワシの最愛の妻は、複数の難病を罹り、死んでしまった。病名が多くて、忘れてしまったよ・・・。美しいものに、永遠はないんだ。だからね、祥子の介護を、芥川賞作家の裕君に『後は宜しく』なんて安直なことは言えないのじゃ。なあ、裕君」

 和夫の口調が強くなった。冬山で凍える登山家の最後の叫びように、裕の耳に響き渡った。

 その刹那、祥子が病室の扉を開けた。和夫の声は止まった。和夫は瞼を閉じて、深い眠りに向かった。

「父さんと話していたの? 声が聞こえたわよ」

「何でもないよ。和夫さんに、本を読み聞かせていただけだよ。主治医は何か言っていたかい?」

「父さんは、裕君の声を聞けて幸せね。主治医は、父さんの今後については分からないって。明日息を引き取るかも知れないし、一ヶ月後かも知れない。それは分からない。結局のところ、どんなに勉学に励んだお医者さんでも、正確な死期の判断は出来ないみたい」

「仕方がないよ。後は和夫さんが、自身で決めることなのかも知れないね」

 祥子は和夫の側に座り、和夫の手を薔薇の刺繍が入ったハンカチで優しく撫でた。そのハンカチは、裕が祥子へ渡した還暦祝いの贈り物だ。

「ねえ。祥子さん。これから、出掛けてきても良いかな?」

「えっ。うん、良いわよ。行ってらっしゃい」

 声が一瞬止まったが、祥子は表情を変えることなく承諾した。

「ごめんね。電話は直ぐ取れるようにするよ。何か有ったら、直ぐに電話をして欲しい」

「気にしないで。行ってらっしゃい」

 祥子と哀愁の視線と、和夫の鼓吹の視線を背中で受け、裕は静まった病室から駆け出した。




第10章へ続く。




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