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良いものとは何なのか? 面白いものとは何なのか?

こんにちは。

普段目にする芸術品。音楽、絵画、映画、演劇、ドラマ番組、俳句、文学・・・などなど、多岐に渡ります。もう、数えきれないくらいに溢れかえっています。
そして、それらの作品は、僕らの時間を剥奪しようと、影を潜めています。麻薬に近いものでしょうか。健全なのでしょうか。ここでは、健全と定義します。

良き作品について、常々考えることがあります。


何故、この小説は面白いのだろうか? 何故、この小説はハマってしまうのだろうか?  


僕は川端康成先生の小説は愛読するのですが、もしも、川端康成先生が、ノーベル文学賞を得ておらず、そうですねえ、場末の居酒屋で深酒に浸る男の位置付けだとしましたら、ここまで嵌ったのだろうか? 

絶対的に嵌った、と断言不可で懐疑的な自分がいます。とすると、僕が読んでいるのは、文学作品ではなく、川端康成先生をよんでいるのだろうか? 

それも違う、と。

満天の星空のように麗しく、そして蠍のような棘を潜めている先生の文体は、唯一無二のものであり、何故か嵌ってしまうのです。ついつい、手にとってしまうのです。



話は変わりまして、少し前に兄と話すことがありました。

兄は言いました。

「面白い映画は、どこから見ても面白い」と。

初めから見ても、途中から見ても面白いものは面白いという意味です。兄は無類の映画好きでして、詳しい方だと思います。

面白いものは、どこから見ても面白いかあ・・・僕はあることを想起しました。夏目漱石先生の『草枕』にワンシーンです。

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「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開あけて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「妙な理窟りくつだ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」
「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」
「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
余は、やはり女だなと思った。

・・・

以上です。

凄く頭に焼き付いているワンシーンなのですが、実に面白いですねえ。作中の『余』が漱石先生自身を描かれたかは分かりかねますけれど、多少は思惑があったのではないでしょうか。

『小説を途中から読むこと』 

僕は完読する方ですので、途中から読むことはやったことがありません。しかし、完読したはずの『草枕』の全容を正確無比に述べろと言われると、吃ってしまいます。
気が向いた時に、『草枕』のワンシーンをパラパラと捲って読む行為は、『小説を途中から読むこと』に近しいのではないでしょうか。そして、『面白い小説は、どこから読んでも面白い』『良いものは、どこから見ても良いもの』と、今のところ勝手に結論付けています。

今のところです。



花子出版    倉岡

文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。