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生き方は上下で判断できない


どうも!

緑川むぎこです~

現在朝の6時40分

いつも、9時とか10時とかに目が覚めるのに、今日はずいぶん早起きです

何も予定ないのに、こんな早く起きるのはレア

また寝ようと思っても眠れません

なので、こう思いました

「そうだ、note書こう」

#挨拶文を楽しもう



ではでは

わたしの高校は進学校(自称)だったので、とにかく勉強勉強の毎日でした

いい大学に行くために、ひたすら知識を詰め込む

あるとき、先生に進路の相談で「わたしはこの大学行きたいです」と話したところ、

「いやいや、むぎこさんはもっと上の大学の方がいいですよ」

と言われました

上とは何でしょう

偏差値のことでしょうか

そのときは、自分の「行きたい」という思いが踏みにじられた気分でいっぱいでした

自分の行きたいところは、「下」なのだと

そのような学校で勉強を続けたからこそ、わたしは世間一般では「いい大学」に進学できたのだと思います

大学進学してから、塾でアルバイトを始めたのですが、そこで生徒の進路相談に乗ることもありました

「自分は、この学校に行きたい」

そう希望を語る生徒の目は輝いていました

生徒はここを志望していますと上司に伝えたところ、上司はこう言ったのです

「もう少し、上の学校を目指すように言ってくれませんか?」

また「上」かと思いました

生徒は生徒なりに、自分の「やりたい」「ここで勉強したい」という思いがあって、わたしに話してくれたのに

なぜ、上だの下だのランクづけされなければならないのでしょう

しかたなく、わたしはやんわりと生徒に「この志望校を軸に、いろんなところの対策をしてみよう」と伝えました

とても、上司の言ったことをそのまま伝えることはできませんでしたね


こうしてわたしは、

上とか下とかに、違和感を抱いてきました

そして、友だちに仕事を辞めたことを話したとき

「えーっ、もったいない! わたしの職場より絶対そっちの方が上なのに」

と言われました

え? 上なの?

となりました

上だろうと下だろうと、とにかくわたしにとっては苦しい場所でしかなかったのに

上だったら我慢しなければいけないのでしょうか

上にしがみついていなければならないのでしょうか



でも、わたしたちはきっと無意識に自分から見て、上とか下とかを判断するようになっているのだと思います

それは、小さい頃から「上の学校に行った方がいい」とか「いい大学に行って、上の企業に就職するのが安定した道」だとか、教えられてきたからかもしれません

わたしもふと、「この人の大学は自分よりも偏差値低めなんだな」とか考えてしまうことがありました

本当はその人なりに行きたい理由があって、頑張って結果を出したはずなのに

また、仕事もできず、働かない自分を「社会の底辺だ」と思ってもいました

自分を下に見て、劣等感を抱いてはへこむばかり

だけど、それは自分が勝手に解釈しているだけに過ぎないんですよね

偏差値とかランクとか、それは人が価値観を分かりやすく数値化、データ化したもの

そればかりにとらわれて、自分がどうしたいのか、何をしたいのかがおろそかになってしまうと、自分を生きているとは言えないのではないでしょうか

わたしは上下にこだわらず、「仕事を辞める」と決めたことは正解だと思っています

例え、他の人から見たらもったいないことでも、わたしから見れば苦痛でしかないところでした

同じように、それぞれの目線から見える景色は違うのです

だからこそ、勝手な上下というものさしで、判断しないようにしていきたいです

それこそ、相手を思いやる気持ちの一種ではないでしょうか



今回はここまで!

また遊びに来てくださいね♪



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