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人間、暇だと余計なことを考えてしまう

めちゃくちゃめちゃくちゃめちゃくちゃショックな出来事があった。

ほっぺをパーン!と引っ叩かれたような衝撃と、高校時代にずっと味わっていたような胸のモヤモヤと、悲しみと苦しみをギュッと詰め込んだようなこと。

ふと気がつくとそのことばかり考えていて、なにも手につかなくなってしまう。

私は間違っていたのだ、私のせいでこうなったんだ

という思いと

私は私であっただけだ、それを曲げてまでどうにかすることはないのだ

という思いがグルグル回る。

1人取り残されたリビングで
夜ふと目が覚めた布団の中で
料理を作っているふとした場面で

暗闇が私の心を覆う。

だめだ、このままでは飲み込まれてしまう
たすけて、たすけて、
頭ではわかっているのに、心がついていかなくて

もがいて、もがいている

……

「暇」であることは、最も忌むべき状態だ。
特にこういうメンタリティのときは。

暇だと、何かを見つけて過剰に怒りたくなる。
暇だと、何かにつけて過剰に悲しみたくなる。
暇だと、余計なことばかり考えて心が動く。

ここ数年、SNSをしていて強く思っていることだ。当事者や、図星な人には「暇なわけではない」と怒られるかもしれないが、それは暇なのだ。少なくても私はそう。

心が弱っていたり、心が向かうべきものがなかったりするとき……つまり、「暇」なとき。

ぼんやりとSNSを見て時間を溶かす。

目についたニュース、炎上しているツイート
自分に関係あろうがなかろうが怒る。悲しむ。

この兆候があると思ったときには、私はSNSを見ないようにしている。疲れているサインだ。

……

それとおんなじ。

どうにもならないことを考え続けてしまうのは「暇」だからだ。

今回の件について、「たら」「れば」はたくさん浮かぶけれど、どれも今となっては真相はわからないし、どうにもならない。

「今から私ができることなんて何一つありはしない」ということだけが確かにあるだけ。ただ時が過ぎるのを待つことしかできない。

忙しくなればいい。
忙しくなりたい。

高校のときも、私はこういう気持ちになるといつも勉強していた。

机に向かっているときだけは、悩みも苦しみもなかった。目の前の学びに集中して、心穏やかでいられた。

今の私にとっての勉強とは、ライティングだろうかと考えて、とにかく手を動かそう!と机に向かう。

でも、書けなかった。

言葉を紡ぐことは、「学生時代の勉強」のように答えがあるものではない、単純なものではないのだと思い知る。

単純で答えのあるような作業
終わりが明確にわかる仕事

手帳を書いたりとか
完全に「作業」で書ける原稿とか
記事執筆のためのリサーチとか
新規案件の獲得業務とか

そういうものを選んで、スケジュールを埋める。イヤフォンで耳を塞ぐ。思考を止める。

暇になってはいけない。

友人から、悲しみを詰め込んだLINEが届いているけれど、開けずにいる。

飲み込まれてしまいそうで怖い。
脳みそで考えた理屈っぽい返事しか書けない。

あるいは逆に、ちょっとおちゃらけて「ご飯でも行こ!」みたいなテンションになることくらいしか思い浮かばない。

薄情な人間なのかもしれない。
人の心がわからない、冷酷な人間だ。

そんな余計なことを考えて、早朝に目が覚めてしまうのも、それは私が暇だから。

悲しくて悲しくて、他のことが手につかなくて、心にポッカリ穴があいて、ひま……「すきま」ができてしまったから。

そこに余計な思考を流し込んで、埋めている。

「暇」であることは、最も忌むべき状態だ。
特にこういうメンタリティのときは。

薄情かもしれないけど
冷酷な人間かもしれないけど

私は私のすきまを、今は別のもので埋めて、少し休む。休む、しかないんだと思う。

今日は本を読もうと思う。
別の世界への扉を開いて、冒険の旅に出る。

その前に、あと少し、あと少しだけ、眠らせて。

おやすみなさい。


ようやくnote書けるくらいになったけど、めちゃくちゃに暗くなってしまった。でも、書けるようになってきたことは、いいことだきっと。

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猪狩はな|教育ライター
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