還暦
昨日の記事で引用した倉橋由美子の「白い髪の童女」の続きを読んだのだけど……。
「あの植物園のおばあさんですが」と、老人は好奇心を抑えかねて早速話を切りだしてみた。宿の主人はゆっくりと茶をすすって動じないけしきだったが、あるいはそれは、話好きの人間が、語りなれた話を始める前によくみせる、ことさらに口の重そうな態度とも受けとれた。
「みたところ若そうですが、かなりの年のようでもあるし、一体いくつくらいのかたでしょうね」
百歳(ももとせ)の姥といわれて驚倒したい気持ちもあったが、宿の主人の答えは平凡で、
「お客様は失礼ですがまだ還暦前でございましょう。あの女もお客様と同じくらいか、少し下かと存じますが」
老人は主人が「あの女」といったのが気になって、
「ずいぶんいわくありげな女には見えますが、何かよからぬ過去でもあるのですか」
倉橋由美子『反悲劇』 「白い髪の童女」 新潮文庫 p154
ちょっと待ってほしい。
還暦前の五十代で、老人? 老女?
いや勘弁してほしいと、還暦手前の読者としては口をはさみたくなる。
けれども、この作品が発表されたのは1971年6月(河出書房新社)だというし、著者の倉橋由美子氏(1935年生まれ)は、すでに他界している(2005年6月)。
時代の移り変わりが、老いのラインを押し上げたのだと思うしかないのだろう。
令和の五十代で、自分を「老人」「老女」と思っている人が、一体どれほどいることか。
私などはいろいろ体調不良を抱えていることもあって、「そろそろ老人域かな」と思うことが増えているけれど、「老女です」と宣言する勇気はまだない。
老いを恥じているわけではない。
生きてきた年数に見合った人格的な熟成というものを持たないので、「老い」という言葉に気後れしてしまうのだ。
私には、「おばあさんの知恵袋」的な知識の集積などないし、年の功に相当するような経験値もない。
頭の中はいつまでたってもラノベやアニメやゲームで喜ぶ仕様のままだ。
一体私はいつ「老人」らしくなれるのだろう。
あ、忘れていたが、見た目は既に「老」だった。
還暦の予約ボタンを押しそびれ狭霧の森の出口が消えた
※倉橋由美子氏の生没年と作品刊行年についてはwikipediaの記事を参照した。
※画像はpixabayで公開されている写真素材を使わせていただいている。(貼りこんでいる目玉は自作)