帰省を前に

叔父の葬儀もひと段落し、連休に家族と帰省することにした。母の実家および父方の祖母の山荘がある蓼科へいく。行く前に、アルミ缶塗膜をは学ために買ったインパクト用バフの布やすりが使えるか確認した。たいていやすりで磨くと15分かかるところインパクトに装着したやすりはほんの5分程度で塗膜を剥がし終えることができた。これで塗膜を焼きいて剥がすことで毒ガスがでる作業をしなくて済む。
山荘ではこのアルミ缶の塗膜剥がし、薬液の材料として使った消石灰だった炭酸カルシウムや使用済み石膏を焼成し還元させるリサイクル作業、母の故郷の村の近くにすむタイ人のタイ料理屋への訪問、学芸員資格の期末試験対策、タイ語の音読練習とやるべきことがいくつかある。やることが多くやりきれない可能性が多いい。そこで70近い父がアルミ缶の塗膜剥がしをやることになっている。
 なによりそのタイ料理屋が面白いのである。1980年代に多くのタイ人女性とくにイサーン出身者が茨城や長野の農家に嫁いでいった。このため10年前までは長野県が指折りの在日タイ人が多かった。しかし、このイサーンというのは暗い歴史がある。イサーンが近代化から取り残され女性の身売りがいまだに蔓延っている。あるものはバンコクの妓楼やかつてあった暴力団が経営する違法な日本のスナックで働いていたものもいた。その身売りににたこととして、つい最近まで多くの国際結婚相談所のタイ人女性はイサーンが凄まじく多かった。

しかし必ずしも身売りで嫁いだ人ばかりではない。バンコクの会社に就職し、就職先の日本人と結婚した家庭も少なくはない。彼女らの人生は他力信心というべきなのでしょうかね、日本の農家へ嫁いだ多くの女性は結果的に日本の地域開発に貢献し、子孫ともに円満な家庭を築く結果となった。というのも彼女らは介護福祉士の資格を取得し寒村の高齢者をケアしたり、タイマッサージ屋ないしタイ料理を日本の僻地に普及することに貢献してきた。そして彼女らが高齢化して行くのと関連して長野県内には4ケ寺ほどタイ仏教寺院が建立されている。僻地にタイ仏教を布教したとも言える。さらに日本の農村文化まで発展させてきた。タイ料理屋に限らず彼女らイサーンの農村文化を融合させて日本の新しい農業文化を作ってきた。季節に合わせてタイ野菜を作り、秋にはキムチを作っている。母の村に住むあるイサーンの女性は雪が降るたびに降雪のモーラムを歌う。彼女らが育んだ僻地のタイ料理屋はタイ人高齢者女性の居場所に限らずミャンマー人、ベトナム人の居場所になっている。
また横浜にはあるタイ料理屋オーナーの女性が横浜の公園にある山菜やキノコを採取してタイ料理を提供している。このような彼女らの活動が、日本の食文化をますます豊かにしてくれている。私はいつかタイ野菜農家で孫を持つタイ人女性の一年の農作業と村の行事をドキュメンタリー映画にしたいと考えている。なぜなら多文化共生が求められる反面、神道系極右に大和民族の純潔さが失われるという妄言で多文化共生の危機が起きている。そして農村の生態系の隙間に彼女らのタイ野菜が根付いており、野菜を介して文化を含めた生物多様性を描いていきたいとかんがえている。映像化することで未来の郷土資料として残していきたい。


さて我が家には超人というべき家族がいる。今年で100歳になる祖母が山荘へ行く前に私の家に泊まることとなった。100歳だけど週数回は水泳場で水中歩行をし、Iphoneにてこづりながらも、ラインでのやりとりはできている。100歳にしては80歳ぐらいの健康年齢を保っている。
私が民族衣装のロンジー(モンの袴)を自分で染めて縫っているが、祖母のミシンを譲り受けたが、ボビン糸の糸巻きの操作がわからず、ロンジーを縫うことで困っていた。それが面白いことに、祖母と操作を確認することになり、スマホを操作できる2人であってもミシンの操作に悪戦苦闘してしまった。途中私はくたばり、晩まで横になっているなか、祖母と母が下糸が絡んだミシンの調整を済ませてしまった。むしろ私の方が老いぼれており、滑稽である。蓼科で祖母にミシンを任せ、縫い直したロンジーでタイ料理屋へ行くのが楽しみである。


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