ここまでの流れ(まとめ)
最初のnote記事をかいてから1年が経つのを契機に、一目でわかるように、まとめておこうと思う。
家族構成
の4人家庭に生まれる。
母子家庭で、母親はずっと高校の英語教師をやっていたが、非正規雇用で、借金も多く、生活は苦しかった。
母親は教師、祖父は技術者。
祖父の甥も大学教授など、教育関係が多い家系だったが、お金には無頓着で、経済的にはうまくいっていなかった。
父方とは生まれてすぐ離婚。
母方の曾祖母が認知症、在宅介護で亡くなり、やがて祖母が認知症になった。
祖母の介護は、母と祖父・自分の3人で相手をしたが、娘(母)の顔をすぐ忘れてしまい「泥棒!出ていけ」とののしり、風呂、トイレのたびに殴り合いのつかみ合いで、平穏な日々はなかった。
祖父は散歩中に転んで半ば寝たきりに。
祖母は3年ほどして肺気腫で亡くなり、後を追うように半年後、祖父も他界。母親と2人になり、暮らしていくことになる。
母親は非正規雇用(公立高校の臨時・非常勤)だったので、年金は月5万しかない。在宅介護の連続の果てに、祖父の年金も失われ、生活は一気に苦しくなった。
自分には親以外の、三親等の親戚は一人もいなくなった。
母親も認知症に
数年後、さらに母親も認知症になる。
ありもしない家があると、そこに忘れ物をしたと取り乱して、興奮して他人の家で倒れ、警察を呼ばれる。
その後、海岸に連れて行った。
とても弱気になっていて、ここがどこだかわからない。
自分は長くないと。祖父母に会いたいと。
総合病院に連れて行き、MCI(軽度認知障害)の診断が出た。
今から10年前、62歳のこと。
65歳以前で発症した人のことを「若年性認知症」というらしい。
祖母の時は、在宅介護に毎日必死で、十分な医療・サポートを受けることができなかったので、今回は失敗しないように。
専門家に見せて、適切な医療や介護を受ければ、認知症は改善する、と思っていた。
認知症学会認定の専門医を選ぶが・・・
「日本認知症学会認定専門医」
https://square.umin.ac.jp/dementia/g1.html
肩書から選んだ。
毎週学会に出かけていく、地元では有名らしい女医で、壁には論文や、雑誌の記事が張ってあった。
アルツハイマーの診断が出て、
ドネペジル・グラマリールという定番の薬を処方され続けた。
それに合わせて、毎日親を連れまわし、認知症に効くというサプリメントを買い集め、ちょっとでも認知症に効果があるというものに手を出した。
女医には
「何か新しい薬のテストが始まったら教えて下さい」
「試したいので」と毎週伝えてあったが、
ある日、新聞で「認知症の新薬の治験をエーザイが始めた」という話を見かける。
(認知症学会専門医の)女医に新聞記事をもっていって尋ねたところ、
「あんたみたいなのは治るわけないでしょ」
「無駄なんだよ」
「認知症は遺伝する?
わたしの家も親が認知症なんだが。わたしが認知症だといいたいのか!
と切って捨てられ、信頼関係が失われたため、急いで他の病院に移る。
大学病院をたらい回し・・
二度目もこちらの中から選んだ、
「日本認知症学会認定専門医」
https://square.umin.ac.jp/dementia/g1.html
急ぎ、治験のため、大学病院に紹介状を書いてもらう。
どこでやっているのかは教えてもらえない。
「まずは診察してから」
どこの大学病院も同じセリフだった。
大学病院をたらい回し。
「日本認知症学会認定専門医」には、紹介状を書いてもらっていたが、数回目で怒りだしてしまう。
「ぼくに出来ることはないよ!
「あとは大学病院で診てもらったら?」といわれてしまう。
CT、MRI、脳血流シンチ、、、診断診断の日々。
あちこち医者を回り、大学病院を渡り歩く中で、大半の医者は大人しい「アルツハイマー」しか見たことがなく、他の認知症、特に、若年性認知症は専門外だったことを知った。
数件目の大学病院で、
なんとかエーザイの治験コーディネイターと巡り合った。
予約を取り、治験前の最終テスト。
「残念ながら審査に落ちました」
と治験を寸前で断られてしまう。
メンタルテスト、計算問題のスコアが1~2点基準に及ばず、
「あと少し早く来てくれたら受けられたのに・・・」といわれた。
ここで医者を頼り、認知症を改善しようと努力してきた、自分の望みは絶たれた。
コウノメソッドへ・・・
大学病院を断られた後、当時、たまたまネットでみかけた「コウノメソッド」というキーワードを頼りに、実践医を探す。
認知症は治る、という本も書いている系列だったが、
https://www.amazon.co.jp/dp/4837612350/
あまり信用はしていなかった。
たまたま片道一時間のところにあった60代の医師のところへ。
「お母さんの症状は若年性認知症」
「分類はわからない」
「興奮して幻覚が出るだけなのでドネペジルはやめよう」
「半年以上飲んでいい薬じゃない」
「ずっと教師だったのでしょう。よくしゃべるし、頭が良すぎる。脳の容量が多いから、普通の人のように大人しくなれないね・・・
など色々相談に乗ってもらう。
一緒に色々試していこうといってくれる医者だった。
発達障害(ADHD、アスペルガー)と認知症の関係にも言及していた。
「前頭側頭型認知症」という診断はそこで初めて出た。
症状が近いからと統合失調の薬「ウインタミン」に加えて「抑肝散」などの漢方薬、色々なサプリメントを服用したが、結局じわじわ悪化していった。
薬の量を定量の10倍まで増やしたが効果はなく、若年性は難しい、といわれる。
一応、まだ携帯電話は操作できていて、文字も書けていた。メールを毎日、鬼のように送ってきた。当然興奮して、決まった時間に出かけようとする、時間帯によって興奮の波があった。
それを自分は「物忘れの発作(ほっさ)」と呼んでいた。
やがてコウノメソッドの医師は病院をやめてしまい、次のかかりつけ医も同じく「コウノメソッド」の実践医を選んだ。
その人も同様に話し相手にはなってくれたが、色々薬を試したものの、同じく答えは出なかった。
介護サービスは使えなかった
ここまで、ずっと連れ回していて、朝8時過ぎに家を出て、夜は11時まで、、を繰り返していた。家にじっとしていることができなかったし、この時期までは、メールもできて顔もわかっていたので、そこまでの負担はなかった。
要介護認定はずっと「要介護2」のまま。
何度かショートなども試したが、朝まで興奮してしゃべりっぱなしだった。本人も行きたがらず、うまくいかなかった。
骨折等で総合病院に入院した時は、1週間の予定が、3日で追い出された。点滴をひきちぎり、ナースコールを連打して、2日目からはナースセンターにベッドを移動して看護婦のいる中で休んでいたとか。
市役所の包括支援は、精神病院への入院を薦めてきた。
市の薦める精神病院を受診すると
3ヶ月、という時間制限は無責任に感じた。
いままでの大学病院やコウノメソッドに比べて認知症の知識には乏しかったし、治験で新薬を試す、症状を改善させる、生活環境を整える、という今までの努力とは逆方向だったので、
精神病院への入院は納得できず、医者にもらった薬を家族側で飲むか飲まないかで加減しつつ、毎日、連れまわしていた。
コウノメソッドのもと、色々な鎮静剤、向精神薬を試したが、どれも反発され、うまくはいかなかった。
仕事は副業、親戚は逃げる
親は月5万程度の年金しかなかった。
正規の仕事につけるような状態ではなかったので、親を連れまわしながら配達をしたり、物を売買したり、副業の小銭稼ぎに奔走した。
自分には三親等の親戚はいなかったが、母親には、叔父や従兄弟がいたため、代わりに連絡したところ「うちも生活が大変なので・・・」の手紙を最後に連絡が取れなくなった。
昔の教え子達に手紙を出した時も同じような結果だった。
唯一遠縁の、祖父の甥である大学教授の奥さんが気にかけてはくれたが、90過ぎの高齢だったのでそこまで頼ることはできなかった。お金の支援をしてもらったこともある。代わりに家族の写真集を渡した。
ある日突然、顔がわからなくなった・・・
発症から7年ほど経過した、ある晩、
車の中で親が突然
「どちら様ですか?
「以前お見かけした方でしょうか?
といってくる。
本気でこちらのことがわからない顔で、半笑いで質問してくる。
明るいところに連れ出しても、こちらのことがわからない。
不穏な兆候。
祖母のように敵対するのかと思ったが、その場はしばらくして収まった。
その後も週1回のペースでこちらのことが誰だかわからなくなった。子供の居場所を聞いてくる。そのペースは徐々に増えて行った。
呼び方は「名前」から「先生」に変わった。
運転手か、学校の同僚だと思っていることも多かった。
質問攻めがひどくなり、こちらも疲弊していった。
口論が絶えず、こちらが怒るたびにその場から逃げ出し、通行人に助けを求め、警察に保護された。
処方された薬は「誤差?」という位、ほとんど効かなかった。
あるいは火が付いたように荒れ、激しく拒絶した。
もう限界、と引き取らなかった日
警察の保護が続いて、疲れ果てていた日。
ある日の午後、家から車で1時間ほどかかる
ホームセンターの駐車場に寄っていたところ
あなた誰ですか
わたしの家に戻りますので、が始まった。
それなら好きにしろ、放置して
10分ほどして戻ったところ、
ドアが開きっぱなしになっていて、
親の姿はなかった。
数時間後、暗くなったころに、警察から電話。
いつも保護される、地元の警察ではなかったので、
と問い詰められ、疲労していたので、放置した。
日付がかわるまでに警察に引き取りにいかなかったので
「やむを得ない措置」
で施設に送られ、後日、施設費用を日割りで払うことに。
高齢者虐待を疑われ、2週間ほど施設に保護された。
自宅に戻る際に、行政の指導で、追加で訪問看護や訪問医療等の介護サービスが入ることになった。
認知症対応デイの利用を始めるが・・・
このあたりから常時、こちらのことがわからなくなっていた。口論が続き、連れまわすのも限界に近かった。
要介護度は変わらず「要介護2」のままだった。
「認知症対応デイ」が地域に1つだけあったので、行政の紹介で通い始めた。
週2回。朝9時~午後4時まで。
帰宅時に自分がいない時はコンクリートブロックで扉を固定してもらい、その日だけは、こちらも距離をとっていた。
夜戻ると、部屋で人を探し、荒れた形跡もあったが、何とか毎日をしのいでいた。
認知症対応デイは外出はできない。車でのドライブもできないので、ずっと密室対応。他の利用者も記憶がないので、騒いでも覚えてないため、クレームが入りにくい、、、のはあるけれど、
他の利用者はアルツハイマーが大半だったので、ずらりと椅子に座って一日テレビを見ているのが普通だった。
うちの親だけ騒いでいて、興奮するたびに別室に移動して、対応していた。狭い室内ではよくやってくれた方だと思う。だが症状・性格的には合っていなかった。
認知症対応デイの職員に何度か「薬を試してほしい」といわれ。こちらも協力するために色々鎮静剤を使って無理をしたが、
さらに認知症状が悪化し
メールが打てなくなり、ノートも書けなくなり
「文字が読めない、書けない」状態になってしまった。
そのストレスはしゃべることに向かい、常時しゃべりっぱなし、怒鳴りっぱなしになって、ますます介護が大変になってしまった。
その直後、ドアを叩いて騒いだ事がオーナーの耳に入り、トータル3年ほど通った認知症対応デイは、出入り禁止になった。
使えるサービスがなくなった
訪問医療は月2回、数分しか見に来ない。
訪問看護は週1回、30~1時間程度で帰ってしまう。
認知症対応デイ付きのケアマネに退去前に書類を書いてもらい
「要介護2」→「要介護5」に変わったが
使える施設はなかった。
通える圏内に他の認知症対応デイはなかった。
ちょうど数年前に施設の統廃合を行い、認知症対応の施設を減らした直後だったので、お断りになった「認知症対応デイ」の他が見つからない。あるのは他者からクレームが来やすい通常のショートや、デイサービスだけ。
認知症対応デイ(認知症対応型通所介護)は地域縛りがある。地域密着型、同じ自治体でなければ使えないが、行政に特例でなんとか越境を認めてもらい、他の市町村の介護サービスも探した。
しかし他の市町村でも、受け入れ先はなかった。
精神科病院のデイナイトケア(認知症対応デイのようなもの)が県内に唯一あるといわれ、向かったが、その時点で「しゃべりっぱなし」になっていたため、たった30分で出入禁止になり、自宅に戻されてきた。
地域ではケアで有名な小規模にも利用待ちをしていたのだが、一年後「いつまで待っているつもり?」「他探したら」といわれる。利用させるつもりはなかった。
車で連れ回すなら、せめて現金だけでも支援してくれないか。
行政に何度もかけあったが、
「生活に困ったら生活保護を。
それ以外の制度はありません」
と返事が来て終わった。
生活保護を受けるということは、アパートに移転して、車も手放すということ。前頭側頭型認知症になったら、今までの住まいと、車はどちらも必要だった。
訪問介護サービスとは紹介で契約したけれど、やってくるのは昼頃~午後。そこまで外出させず、家に押さえつける苦労を考えると割に合わなかった。
介護サービスが減った分は、警察に頼った。
毎日毎日保護。
小規模と訪問介護で継続、、、
最期にエリア外の認知症対応デイに面接。
デイ側にやる気はあったけれど、すでに男性の「前頭側頭型認知症」の利用者を1人かかえていて、スタッフも男性は、足の不自由な高齢男性一人しかいなかった。車の運転もその男性が一人でやっていたので、難しいと断られる。
前頭側頭型認知症は、普通のアルツハイマーよりはるかに手間がかかるので、認知症を扱う施設でも1~2人が限界のようだ。
その帰り、たまたま小規模に立ち寄って、八方ふさがりの状態を伝え、なんとかやってみましょう、と始めることに。
約1年間、行政との話し合いなど、紆余曲折があった。
泊りも「月2回」が限界。
小規模が介入してからは他の介護サービスが並行して使えず、訪問介護や訪問看護も解約になったので、障害者福祉(精神障害者向け)のサービスとして重度訪問介護を入れることで、朝の混乱を多少助けてもらうことができるようになった。
今までは朝、騒いで暴れて外出。食事も洗濯もできない。
部屋も荒れ放題、、が普通だったが、
朝ヘルパーに来てもらうことで、その間にこちらもシャワー入ったりすることができる。
ただどの介護サービスも基本的に日中しかない。
ヘルパーは最大でも朝8時からだし、それ以前の夜間~深夜~早朝は自分がやらなければならない。
かなりしんどいし、自分の時間も十分持てない。
仕事も制限されるのは変わらない。
それでも自分以外の話し相手がいることで、警察に保護される回数は大幅に減った。
認知症対応デイしかない時は、最低でも週2回。
介護サービスがなくなって毎日数回保護されていたのが、今年の年末は3ヶ月に1回まで抑えることができた。
また薬はコウノメソッドから、訪問医療の精神科医にきりかえて続行した。鎮静剤はほとんど効果がなく、対人ケアが有効。また発達障害の薬がいいかもしれないというので試している。
この一年で「不穏」な精神症状で「薬」で解決しなければならない、と思っていたことが、実は生理的な不快感を訴えていた、ということも分かった。
便秘、トイレ、小便などの不快感が騒ぐ原因のことは半分以上。
残りの半分は孤独感や、話し相手がいないことへの不満。
誰かがいれば、そこまで暴力にはならないが、手がかかるのは変わらない。
文字が読めず、書けない状態になってからは、一方的にしゃべりつづけるのが日常になった。医者によれば「流暢性失語」だそうで、今後はますます言葉の意味が通じなくなっていくそうだ。
また今までの10年近く、戦い、口論し、喧嘩しつづけてきたため、こちら(子供)の顔は忘れられてしまった。
夏の朝、目を離した隙に、家から飛び出し、車を叩いて措置入院までいったこともある。
今後、これからどうなるのかはまだわからないが、
介護サービスは行政の支援がなければ成り立たない。
介護事業者と介護者家庭(家族)は、
車の両輪で、どちらかが折れても続かない。
これからどうなるのかはわからないが、
続く限りは、このまま続けることになると思う。
どちらかが折れれば、精神病院で投薬漬けの道しかない。
日本ではそういう人に居場所がないのが現状。
将来的に介護サービスはどんどん縮小され、在宅介護で苦しむ人も増えていく。前頭側頭型認知症、レビー、若年性など、アルツハイマー以外の手がかかる患者も増えていくだろう。
その時のために書き残しておく。
普段はTwitterに書きとめているが、現時点までの流れはnoteにまとめました。
~2023/01/31 hamo