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【小学校教育と人間形成】『小学校~それは小さな社会~』_その3

あまりにも多くの感情があふれ出したので、切り口ごとに感想を書き分けています。

👇️映画全体の感想はコチラ

今回は、映画鑑賞から派生して思いがめぐった私の中に息づく小学校の片鱗について書きます。


小学校生活全体どうだった?

自分が小学生だったのは、今から約40年前の世田谷区。

私にとっての小学校生活は、大きく2期にわかれる。


第1期(1年生~3年生途中)

  • 勉強させられる場所

  • 集団生活のルールを守らされる場所

  • 緊張しながら生活する場所

  • 行かねばならないから行く場所

第2期(3年生途中~6年生最後)

  • 自分の得意を発揮できる係や活動がある場所

  • 楽しい授業を受けられる場所(話し合う・考えるがメイン)

  • 友達と過ごす場所

  • クラスの仲間が楽しくいられるようにお互いに思いやる場所

  • 自分がイキイキできる場所

第1期と第2期。
「転校した?」と聞きたくなるほどの変貌っぷり。

3年生の途中で担任の先生が変わったことが原因だ。

当時、3年生、5年生でクラス替えを行っていたため、もれなく私も5年生の始めにクラス替えを迎えた。

偶然にも同じ先生のクラスで5年生を迎えることとなったため、卒業までの合計3年半、同じ担任の元で小学校生活を送ることとなった。


思い出に残る担任の先生


この先生、いわゆる「子ども受けの良い」先生だった。

他のクラスの先生たちや一部の親からは呆れられたりする一方で、子ども達からは大人気だった。

窮屈な学校生活の中で、子どもと一緒になって悪ふざけしてくれるからだ。

印象深い出来事がある。

遠出のバス遠足で学年全員で海へ行った時のこと。
地引網などをするため、「海水につかるのはひざ下まで」という暗黙の了解があった。

ところが、うちのクラスはひざまでどころか頭までつかり、服はびしょびしょ。水中眼鏡までかけでキャーキャー騒いでいる。

あきれ顔の他のクラスの担任を前に、子どもたちも「いいな~、、、」って感じ。

結局、ほかのクラスの子どもたちも「やりたい子たちはやりたいようにやる」ということなり、卒業アルバムにはその楽しそうな姿が写っている。


そんな私たちのクラスは教室の中もちょっと変わっていた。

当時発売された「ゲゲゲハウス」が置いてあった。

ゲゲゲの鬼太郎 ゲゲゲハウス

いきさつは、こうだ。

クラスにいつも寝ぐせで不自然に髪がピンとたった男の子がいた。

鬼太郎が妖気を感じた時のそれとそっくりなので、寝ぐせを見つける度に

「妖気だ!妖気だ!」とみんなはしゃぐ。

やがて、誰が言い出したのか
「クラス全員を妖怪にあてはめよう!」ということになり、教室のTVの棚に先生が「ゲゲゲハウス」を設置した。

ちなみに、わたしは「油すまし」
根拠はよくわからない。。。

水木しげる先生の描く「油すまし」

いまやれば、この行為いろいろと言われるな(笑。

ただ、これには良い点もあった。

クラスの中での日常的な「目立つ目立たないに関係なく」、それぞれにキャラが割り振られることで、新たに光が当たる子もいた

そして何より、どの子についても語りあう時間をもつことになった。

先生は、そういうクラスづくりがとても上手だった。


私の中に息づく「小学校」


小学校生活、楽しそうじゃん?
何が問題?

と言われそうな気がする。

確かに、後半はすごく楽しかった。

一方で、運動会で一糸乱れず踊る様子や、教室前方に掲げられた「6年生としての自覚を持つ」とか、自分が違和感を持ち不快感を感じてきた要素が、改めてみる卒業アルバムには散りばめられている。

この楽しいクラスにとて、それはあった。決して、ないわけではない。

なんというか全体主義的な雰囲気。

繰り返すが、クラス自体は楽しかった。

けれども、同時に、学校全体として窮屈さを常に感じていたし、とにかくルールの中に収まるのだという雰囲気は苦手だった。

それらを6年間浴び続けた私は、嫌だ嫌だと思いながらも「見えない枠を自ら作り、その枠に収まるよう行動を制限する癖」を自分の中に築いた気がする。

これは自分の中で本当に嫌な部分。
けれども容易に消し去ることができない部分。

(もちろん、小学校生活がその原因のすべてではない)


この映画を観てわたしは涙が止まらなかった、と何度も述べた。

感動したとか、そういうことじゃない。

スクリーンに映し出される学校というシステムには、嫌悪感や違和感は止まらない。

だのに、なぜか涙も止まらない
出っぱなし。

ふと思った。

これまで悪い感情しか抱いてこなかった生き別れの母に会う、ってこんな感じなんだろうか、、、。

憎んでいる。
責める気持ちしかわいてこない。

だから別に会いたいとも思わない。

けれど偶然会ってしまったとき、それは直に魂に触れてしまったような衝撃を受けるのではないだろうか?

嫌だけど、自分の中にはこの人がいる。
自分という人間に、間違いなくこの人の片鱗は刻まれている。

観たくないけど目をそらせない。
嫌悪感、違和感、憤り、なつかしさ、あったかさ。

そんな名前の付けられない無数の感情が、ごうごうと渦を巻く。

しばらくして、落ち着いたとき、
事実として、これを認めよう。
嫌なところもあるけれど、良いところも探してみよう。

そんな気持ちになった。


オマケ 小学校から中学校へ


小学校を卒業したわたしは、中学校に入って愕然とする。

ここでは、一生懸命やることがダサい、みたいな雰囲気になってる。

小学校で標語にしてきた、「進んでやる」、「けじめをつける」、「男女仲良く」とか。

それをしようと思うと「鬱陶しいほどにアツい人」として浮いてしまいそうで、わたしにはできなかった。

そして、しらけた毎日が始まった。

やがて、部活動に入ることで発散したけど、それでも学校全体に流れる「しらけた雰囲気」は苦手だった。

  • 小学校ではアツアツの教育をするのに、中学校で突然放り出される感じ。

  • 小学校から中学校への非連続性

中学校1年生のころは、ここに打ちのめされました。

今から35年ほど前。

みなさんは、どうでした?

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