スピノザ考察ノート
西田幾多郎の『善の研究』をちびちび読んでいる。読みながら、「汎神論だよなあ」との感慨を強くする。西田自身は直接に神とは言わず実在と言うのだが、実在は統一かつ矛盾であるとか、「一なると共に多、多なると共に一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである」とか、とにかく汎神論的な気分が横溢しているのだ。『善の研究』の終盤で直接神について語る地合いにおいても、「万物は神の表現である」「神即世界、世界即神」と西田は書いている。
汎神論といえば、しかし、やはりスピノザである。
スピノザは、デカルトを解釈しながら「神=自然、自然=神」のいわゆる汎神論哲学を展開した。西洋の学問や宗教の文脈では、神は世界外的な超越的存在とみなすのが一般的傾向であって、しかもそこでは、神は人格的で道徳的な主体とされる。超越的な人格神が、この世界を外から創造した。これは人格神論(有神論)の立場である。翻って、スピノザが想定する神は、世界の外にいるのではなくむしろ世界に内在する。内在しつつ、その精神が自然や事物を通じてそのつど体現されていると考えるので、このような神は能産的自然(natura naturans)ともいわれる。神は世界に内在するのだから一応自然である。しかし、だからといって神はそこらへんの木や川が可視的であるようには可視的でない。神が自然であり世界に内在する何かだとすれば、それは、木々や河川に生気を与え、ある種の方向性や統一をもたらす何かであるほかない。私もスピノザをそこまで真面目に読んでいるわけではないが、もしかするとスピノザの神(能産的自然)とは、目に見えない自然の生命力ないし意志を含意しているのかもしれない。
こういう事情だから、スピノザの議論は西洋の「常識的な」自然観とはやはり対立してしまう。人格神論に対して、スピノザの哲学は汎神論、さらには無神論とまで呼ばれる。神を論じているのに無神論なはずがないじゃないかと思うかもしれないが、ここでは、世界に外在する超越的な人格神を否定したからそう呼ばれるにすぎない、と考えていただきたい。
また、書きながら思ったが、nature を自然と訳すのは仕方がないとはいえ、あえて西洋人の精神言語風景に共感しつつ造語するとすれば、nature はむしろ産然(産まれて然る)とでも訳してみるべきかもしれない。nature は原義としては「産む」ということだから、それを名詞にするときは、産然と呼ぶほうがむしろ近い(これに従えば、スピノザの神は「能産的産然」ということになる)。西洋人にとって、自然は「自ずから然るもの」ではない。「産まれて然るもの」なのだ。言葉の時点で、すでに自然観の対立が予告されているかのようである。
閑話休題。スピノザの哲学は、彼以後の哲学者に多大なる影響を与えた。シェリング、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、ドゥルーズ・・。しかし、汎神論という発想は、西洋哲学史においてはイレギュラーなものにも見える。スピノザ以前だと、定番なところでは三世紀の新プラトン主義まで遡らないといけない。しかし、いろいろ調べてみると、スピノザはブルーノやマイモニデスの著作にも親しんでいたらしい。二人ともややマイナーな人物ではあるが、前者はアニミズム的汎神論を展開したし、後者は新プラトン主義の影響下でユダヤ教を合理主義的に解釈した。
もちろん、「材料」が与えられたからといってそれが一つの体系的な哲学に結実するわけではない。ここからはしばし、スピノザの人生を振り返りながら、その哲学の由来や背景について考えてみたい。
スピノザは、イベリア半島から(ユダヤ人迫害を逃れて)オランダに移住した「移民」である。オランダ語は得意でなく、日常的にはポルトガル語を話していたようである。父は貿易商だったが、スピノザが22歳のときに死んでしまう。スピノザは家業を継ぐが、2年後には廃業して、以後、学問研究に身を捧げながらオランダを転々とする人生を歩む。大学の教授にはならず、在野の研究者として44歳の生涯を閉じた。
学問研究に人生を捧げつつ、しかし、スピノザはどうやって「食って」いたのか。レンズ磨きの仕事をしていたという話は有名だが、それだけで生計を維持できたかは疑問だ。実は、友人の支援(パトロネージュ)がデカかったらしく、各方面のものを合わせると、当時の大学教授並みの収入となったらしい。貿易商の父親の遺産も考慮すると、スピノザは決して貧しくひもじい暮らしを強いられていたというわけではなさそうだ(一見すると質素なその暮らしも、可処分所得の大半が書籍代に消えていたことを考えると納得もいく)。
有名なレンズ磨きの伝承についても、もちろんそれでいくばくかの収入を得ることもあっただろうが、半ば趣味道楽で夢中になってレンズを扱っていた側面も大きいだろう。レンズ磨きを「駅前の靴磨き」のアナロジーで理解すべきではなく(私は長いことそうしていた・・)、むしろ、当時の最先端の天文学技術の一環で、レンズ磨きを事としていたと解釈すべきなのかもしれない。スピノザと同時期に活躍したホイヘンス(蘭)も、望遠鏡を自作し、レンズの改良を重ねながら土星の環の解明に貢献している。レンズ技術は、今でいうと半導体みたいなものだろうか。
また、当時のオランダは、国際商業国家として、現代でいえばアメリカ合衆国に相当する世界の覇権国だった(江戸幕府も西洋ではオランダとだけは交易を維持していた)。たぶん、イーロン・マスクやジェフ・ベゾスみたいなのがちらほらいて、彼らはカネが有り余っているので、例に漏れず、宇宙へのロマンから天体科学に投資しまくる。レンズ磨きを取り巻く知的環境も、そうした文脈のもとで考えなければならない。直接の支援者は人文学的な素養を持ち合わせた人たちだったようだが(出版の援助や読書会の開催もしている)、同時に天文学への期待から、スピノザのような人物に投資したという側面もあるに違いない。彼らがカネを集める際も、「哲学者を支援しよう」と言うより、「宇宙の解明に貢献しよう」と言った方が、反応がよかったかもしれない。
スピノザは今日あくまで哲学者として知られ、私がにわかに興味をもったのも、その汎神論哲学がきっかけであった。スピノザはたしかに哲学者である。しかも在野の哲学者である。だが、それでいて、哲学で飯を食うということはなかった。大学のような組織に属していない以上、自分が最も得意なことで最大限能力を発揮して、世の中に認めてもらわなければならない。にもかかわらず、スピノザが哲学を最も得意としたことは、不運なことであった。哲学では、まあ、飯は食えないものであるから。しかし、彼が、同時に(科学)技術の才能にも恵まれ、オランダという地の利も得、さらに、その才能を見出してくれる力強い支援者まで得られたことは、明らかに幸運な状況だった。組織に属さず羽を広げて好きなこと(哲学)に打ち込みつつも、その哲学を飯の種にする必要がなかったスピノザは、現実的に考えられる最高の幸福を人生において実現しえた稀有な人物である。
ユダヤ教会からの破門も、この文脈で理解すると面白い。スピノザは父の死後、アムステルダムのユダヤ共同体から破門(エクスコムニカチオ)される。教会の礼拝に出席しなかったり、異教の集まりに出席したり、神が非物質的存在であると主張したり、一言でいえば、スピノザは「反抗的なイヤなヤツ」だったのである。
しかし、考えてみれば不思議なことだ。大昔のことなのでもちろん細かい事情はわからないし、私自身、スピノザに関する文献に知悉しているわけでもない(最近調べ始めた)。だが、単純な事実の推移を整理すると、スピノザは、ユダヤ人だからイベリア半島には居づらくなり、ユダヤ人を歓迎してくれるオランダに安住の地を得た。にもかかわらず、そこで、己のアイデンティティであるところのユダヤ共同体をバカにして、非順応的な態度をとって破門された。
普通の人間なら、迫害されて、せっかくオランダという安住の地を見つけたのに、そこでわざわざ生きづらくなるようなことはしない。共同体の儀礼や文化に違和感を抱いても、「元の国よりはマシ」と、多少我慢して適応しようとするだろう。だが、スピノザはそうしなかった。
まして、スピノザはユダヤ共同体で少年の頃から神童扱いされていた。共同体の中にちゃんと居場所はあったのだ。しかしスピノザは、おそらく、才能がありすぎて、ユダヤ共同体どころか、およそ共同体全般に収まりようのない精神に成長してしまったのだ。
スピノザが破門されたのは23歳の頃。若気の至りというのはあると思う。40歳や50歳で同じようなことをするかといえばしない可能性が高いような気もする。だがとにかくスピノザは守旧的な共同体を打ち捨てた。捨てられたのではない。大胆不敵にも、自分で捨てたのだ。そしてしかも、それでうっかり上手くいきすぎてしまった。
スピノザは若かったから、討ち死に上等で共同体を出たのだろう。「いつ死のうと、生きるに値する生を自分は生きるんだ」と。だが、気づいたらスピノザは思ったより多くの賛同者・支援者に恵まれているのに気づいた。大学教授と変わらないくらい自由に使えるお金が入ってきた。そしてその背景には、オランダが当時世界最強の国として、経済的繁栄を極めていたことも大きいだろう。そこでは現代の資本主義社会の雛形が登場してもいた。1602年に設立されたアムステルダム証券取引所は世界最古の証券取引所とされているし、同年に設立されたオランダ東インド会社は世界初の株式会社である。スピノザは、支援者にも恵まれたし、また支援者を「輩出できる」オランダの経済力にも恵まれた。
喩えが適切かはわからないが、現代でいえば、たとえば、北朝鮮のある家族が亡命して、経済的に豊かな韓国に命からがら逃げるが、韓国でも教会の抑圧が強く、生きづらい。そんな折、サムスンとかヒョンデあたりの御曹司が脱北青年に共感し、またその才能に惚れ込み、幸運にもパトロンとして支援してくれることになった。そうやって、北朝鮮とも、韓国の教会とも距離をとって、経済的自由を得て、制限なく活動する・・。そんな風景が、スピノザの人生からはうっかり透かし読めるかのようだ。スピノザ哲学は、そういう幾つかの幸運なファクターによって織り上げられた、奇跡の結晶なのである。
もとはといえば、西田幾多郎を読んでいたのだった。資本主義がスピノザの経済的自由を(間接直接に)エンパワーし、西洋世界では異質で独創的な汎神論哲学が結実した。だが、東洋世界では、汎神論は異質で独創的どころか「定番かつ王道」なのであった。仏教、道教、老荘思想、朱子学、陽明学。philosophy を「哲学」と翻訳し定着させた西周(1829-97)は、明治時代に初めてスピノザに接したとき、これを性理学(朱子学)に引き寄せて解釈していたようだ(宮永孝「日本におけるスピノザ」)。
西田も、『善の研究』第二編第九章で、精神について、性と理を同列に並べながら議論している。この時代の哲学者は、汎神論を朱子学的背景に基づいて解釈していたのだろう。当時の知識人には、なんだかんだ朱子学の素養があったからこそ、スピノザの影響を受けたヘーゲルやマルクスの全体論的思惟も、バリバリ噛み砕いて消化することができた、という事情なのではないか。
西田の汎神論的気分を、仏教、特に禅のフィルターでこれまでは考察することが多かったが、朱子学という補助線で西田哲学を位置づけることも必要なのだろう。西田は時代の影響もあるのか、静的な無としての汎神論にとどまらず、実在の発展とか内展(involution)とか、ヘーゲル的なダイナミックな存在論を展開してもいる。この点で、西田は、人間の根源的善性を気の濁りを取り払うことで徐々に開花させ、最後にはその理と一体となる、という朱子学的思惟に近づいている。
西田を媒介して、西洋の大天才スピノザと、東洋の大天才朱熹(スピノザより500年も早い!)とが邂逅する現場に立ち会えたようだ。
参考文献
スピノザ『知性改善論』岩波文庫
西田幾多郎『善の研究』岩波文庫
野田又夫『西洋哲学史』ちくま学芸文庫
國分功一郎 (2022)『スピノザ』岩波新書
宮永孝 (2014)「日本におけるスピノザ」法政大学社会学部学会
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