労働と遊び
今の人がなんだかんだ労働にこだわるのは、
やりがいとか生産的なことをしてる充実感とか色々ありますが、
結局、そこに人がいるからだと思うんですよね。
職場で人と会って、協働しながら、関係を築いていく。
だから、宝くじが当たったとかFIREとかでもう働かなくていいとなったときに、あまり心の底から幸せになれないのは、自分だけが自由と時間を獲得しているからなんでしょうね。自分だけ。そして他の人はみんな相変わらず働いている。
労働からの解放は、いわば「労働する共同体」からの疎外を意味しがちであると。だから、脱労働社会は福音ではないわけです。
ただ、これは現代の想像力でものを言っているんだとも思うんですね。
脱労働社会ではみんなが暇になる。自分だけが暇なんじゃない。
そうすると、なんといってもまず、人を誘いやすくなりますよね。
「お前どうせ暇だろ?飲みに行こうや」と。
現代だと意外にこれができないんですよ。
僕も最近はミニマリスト×投資家×哲学者?というアイデンティティで、わりと暇な暮らしをしているんですが、
肝心なとき、「ああでもみんな忙しいんだよなあ」と制約を感じることがあります。
自分ひとりでも楽しめることはたくさんあるんですが、それを複数人でやったらもっと面白いよなあと。
そういうとき、即座に気軽に友達を呼べないわけです。労働社会なので。
(まあ、お前みたいな奴にそもそも友達なんていねえだろという芯を食いそうなツッコミはお控えください)
ともかく、今は人と集まるにしても理由や目的が必要です。「せっかくの貴重なお休みの日」に集まるわけなので、もったいない時間の使い方をするのは心理的に抵抗がある。休みを「合わせる」必要があるので、だったら普段はできない特別なことをしようとハードルを上げる。
そうすると結局ディズニー!とか沖縄!みたいな感じになって、
遊園なり観光なりのサービスを消費する消費者という身分と同一化してしまいがちなんですね。
ところで「消費」といえば、よくベーシックインカム(BI)への批判で、
脱労働社会では、人々は、暇を持て余して遊ぶしかない。遊ぶということはサービスが必要。サービスを提供する労働者がいないと成り立たない、よってBIによる脱労働社会は空論である。
というものがあって、しかも、
BIなんて最低限の所得しか保証してくれないんだから、遊ぶためにはやっぱり働かないといけないだろうと。稼いで、その分でライブ行ったり旅行行ったりできるわけで。脱労働社会ではカネが回らず人は遊べなくなりディストピアだ。
といった反論があって、僕も一理あると思うんですが、
脱労働社会の強みが、さっき言及した「みんな暇だから、いつでも人を誘える」という点にあるとすれば、
たぶん、誘い合わせたもの同士で遊ぶのでサービス業的なものが介入する余地がなくなるんじゃないかと思うんですよね。
暇を遊びに充てる=サービスを消費する
という図式自体が現代的な想像力の範疇であって、
純粋な脱労働社会をイメージしていくと、みんなが暇なわけなので、
みんなで誘い合わせて原っぱ的な遊びや自由な飲み会を楽しむわけですね。
それは、お金がいらない遊びである。
別にBIでお金が十分に供給されているから働かず遊んで暮らせるというわけではなくて、
みんなが暇だと、誘い合わせてみんなで遊べるので、そもそもサービスを買うためのお金が必要なくなるんですよね。サービスを消費する消費者になる動機が減る。
したがってお金の価値も相対的に下がると。
現代人はとにかく時間がなくて好きなときに人を誘えないから、金でサービスを買って遊ぶしかない(だから頑張って働いて稼がないともいけない)わけですが、
その条件が解消されれば、労働とお金の価値が相対的に低下する可能性が高まるんですよね。
今は、大谷の活躍をテレビやYouTubeで見る(サービスの消費者になる)しかなかったりするわけですが、脱労働社会では、人数が集まれば自分たちで草野球もし放題なわけです。こうなるとプロスポーツの興行のあり方なんかも大きく変わってくる可能性がありますね。
脱労働社会で人はとにかく誘いあわせてなんか楽しいことをする。いや、実際に誘う誘われるということがなくてもよい。部屋で一人漫然とゲームに興じていて、ふとしたときに「俺って何してるんだ」「俺の人生何なのかな」などと深淵に落ちかけても、「ああでも俺みたいな奴っていっぱいいるのか」と安心してひとり遊びに没頭できるわけです。実際に誘えるかどうかではなく、誘おうと思えば誘えるという可能性をみんなが意識できていることの方が重要なんですね。
もちろん、集まるにせよひとりで楽しむにせよ、遊びは人間が暇と退屈に耐えられないがゆえの気晴らしでもあります。ブレーズ・パスカルという17世紀フランスの哲学者は「人間の不幸はすべてただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かにとどまっていられないことに由来するのだということである」という名言を残していますね。
ただ、そのパスカルが、上の言葉に続けて「社交や賭事の気ばらしを求めるのも、 自分の家に喜んでとどまっていられないというだけのことからである」と言っていて、
つまり当時の想像力では、人間が暇で退屈したとき、それは自分一人のことではなくみんなそうなので、みんな街に出かけて社交してともに賭け事を楽しんだりできたということではないかと。
現代の「自分だけ暇に取り残される」ようなのと比べると、ずっと疎外感が少ない世界だったんじゃないかと思うわけです。社交とか賭け事なんて、みんな時間を持て余していつでも人を誘える世界を前提にしないと出てこない発想だと思うんですよね。
もちろん気晴らしは現代流に観光でもスマホでも労働でもいいわけですが、
自分だけじゃなくみんな暇なパスカル的風景の方が健全な気もするなと。
脱労働社会で人間がどういうモチベーションや態度で生きていくことになるのかについて、AIの発展や現代のサービス業社会の行き詰まりといった問題意識からいろいろ考えてきたわけですが、
このエッセイで、一つポジティブな見通しが得られたように思います。
これまでは、BI社会とかについて、その人間心理的側面に関して、とても悲観的な見立てを持っていたので。noteでも以下のような記事を書いたことがありました。
散歩や料理、読書、釣りなど、ひとりでお金をかけずにできる趣味はたくさんあるわけですが、それを一生楽しめる人はかなり少数派で、社会全体としては、やはり大多数にとって持続可能な気晴らしが想定できないといけないわけです。
そのためには、やはり「他者とのコラボ」をいかにして確保するかという視点が重要で、脱労働社会の
みんな暇だから、人を誘いやすい
誘ったもの同士で遊びが完結するので、お金がいらない
という側面は、現代社会とは全く別の風景を提示する、魅力的な強みになるのではないでしょうか。