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内心の存在を重視する

ほぼ無意識の状態が最も幸せ。

その理由は、ロジック+神さま(ロジックをあらしめるもの)とともにある状態だから。

とはいえ、「ほぼ無意識の状態」というのは実はそれほどない。

また、「ほぼ無意識の状態」へと意識的に戻る、ということは事実上不可能。仏教的なものとか、瞑想とか、あり得ることにはなっているけれど。

ということで、後追いになってしまうとはいえ、ロジックをより正確に追う(神さまの足跡を追う)ことに幸せを見出す。

けれども、残念ながら、ロジックを後追いで正確に追うには多大なエナジーを要するため、皆が等しく幸せに至る程に夢中で従事することはない。つまり、めちゃしんどくて面白くない人の方が多い。

幸せを感じられるぐらい夢中になれるかどうか?に関わらず、後追いでロジックを追うというのは、理論上は幸せの正体に近付くための有力な方法ではある。

また、既に起こったことを、そのロジックに忠実に理解することは、効率的な資源の活用やそのための技術開発などを可能とするので、人類全体にとって有益。

したがって、夢中になれないということで、ちょっとキツイ場合でも、我慢して従事し続ける、という選択肢も割りと多くの人々に選ばれる。この場合、少し厄介な問題となるのが、”思考の自殺”につながる考え方。

例えば、「生き残りのためなら仕方ない」であり、「ああ。下にこれだけいるんだから大丈夫だ。」

まあ論理を丹念に追うこと自体は苦痛でしかないんだから、他に活路を見出そうとするのは当たり前。他人より一歩でも前に出ている、上にいるならそれでいい。或は、何ら成果を上げていなかったとしても、「社会に貢献するらしいことなので、つまらないと感じていても我慢してやっている」ということで、間接的な貢献を主張するという手もある。

どんな手を使ったっていいんだけれど、しょーもない手はしょーもない。そんなしょーもなさについて納得づくであるかどうかが美醜(善悪)の分かれ目。非常に微妙な内心の問題。しょーもなさだって自分のことと思えるか?それとも、あくまでもそれは真の自分の姿ではないと言い続けるか?

諦めと受け入れの違い。

妄想・夢想に終始するか?しょーもない現実でも目を逸らすことなく愛で、その中に喜び、幸せ、夢などなどを見ることができるか?

丁寧さが求められるのは、あくまでも自分自身について

しんどくてどうしても無理なら休んでたって構わない。

無理に何もやってもいないのにやっている振りなんてしなくたっていい。「振り」を必死でしようとするのは、他者への意識が強過ぎるから。

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(自己3面説の一番目)

他者から見た自分。自分が想定する他者から見た外形的私。他者の目にどう映っているか?他者の主観についての想定。

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自分自身の現実を生きる。

難しいことだ。

一人一人。その内心でしか真実は分からないからね。

油断すればすぐに独善的にもなる。

やっぱり適宜外だって見た方がいい。

しんどいけれども。

自他を相互に尊重する気持ちがあればやっていけるのではないだろうか?

それが私の考えていること。

面倒くさくても、自他相互の内心の存在は、ないことにはしない方がいい。

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