「細かい」と一言で言っても
いろいろあるよね。
私はどちらかと言えば細かい方の人間だとは思う。
けれどもあまりきっちりとはしていない。
結構雑。
お部屋も職場の机もまあまあ散らかってる。
一日の振る舞いにしても、判で押したように反復繰り返しができている感じではない。(最近始めた水泳を除いて。でも行く時間帯とかはバラバラ。。。)
文章に現れている通りともいえる。
「こまけー」ってこと長々述べる割りに、別に出典やら関連文献やらきっちり詰めてるわけでもない。
「いついかなる時も、どんな物事に対しても網羅的であり細部も詰める」というタイプとは全くいえない。
とはいえ。
細かい。
何について?
と考えてみると(までもないんだけど。。。)
自分のこと。
「身の程を知る」というのは大事とは言うけれど。。。
案外それって難しいよね。
わりかしアバウトな踏ん切りみたいなもんが必要かな?と。
そのこと。
え???
なんのこと???
と思われるんだろう。
繰り返すと
「身の程を知る」なんてのは中々言うほど簡単じゃない。
「知っている」というよりも、
その時その場所に限れば「こんなもん」ってことにしといた方が諸々の事情から「まあまあ間違いではなかろう」ぐらいなもの。
所変われば、、、みたいな感じで一々考えてるっていう面ね。
そこは細かいだろうと。
あとはそうだなー
「身の程・・・」とも多少関係あるんだろうと思うけど
テレパシー?
とは違うなー。。。
こう、、、なんての?
人間(でなくてもいいんだけど)が発散しているように感じるインフォメーション?
人間の場合は特に意思みたいなもんがあるので、その人自身はなぁーんも意識しないでいるのかもしれないけれども、そうは言っても意思みたいなもん
”みたいな”なのでね
確固たる・・・とかいうもんでなく
まあともかく一生懸命生きとる
というか、、、
生きてる間って結構色々あるじゃない?
そういう必ずしも一つ一つ定義付けられないぐらい膨大な色々を経験させられているわけなので
やっぱ生きてるだけで結構必死というかエナジーは使わされとるんじゃないかと。
そういう有り様を指して私は「一生懸命生きている」と呼ぶのですが
その”一生懸命さ”みたいなものね
「多分あるんじゃないか??」
という心持ちでなるべく見てあげたいという
そういう気持ち。
細かいね。。。(長いし。。。)
まあそれもこれも
自分のことばかり考えているからなんだけどね。
何やったって中途半端やけれども
とはいえ一生懸命やっとることもないわけじゃあないんだよなー
というどこか負け犬情緒を醸し出してしまうような考えというか態度
それもこれも全部オレやんなーと。
ここまで逃げ場のない負け犬だとさ
苦しいってのもないことはないんだけど
それより、
ふと思うのさ。
「いやぁ。案外たくさんの人間が負け犬とは言わんけれども、どうあがいたってヒーローではないよな。ってか。ヒーロー的な気分になれたとしても、些細なこととかほんのかりそめの出来事であったりとかね。。。”逃げ場がない”とまではいかずとも、楽々息できないような追い込まれた気分になることも結構あるんちゃうか??」なんてことね。
これぞ名付けて
自我の境地。
無我の境地とかいうけどさ
そんなもんがあったとして
現代人はまず自我の境地に至る
それからでないと無我の境地なんてあり得ない
と私は思う。
”あり得ない”というのは
「そんな夢想に耽ってないでやることあるでしょ!」
という意味で。
なんで”現代人は”なんて限定する必要があるのか?
そりゃあなた
もう常識になっちゃってるから。。。
何でも出発点は個人じゃん???
ああ成果もか。
考えるにしたって、行動にしたって、、、責任取るのも、褒賞受け取るのも個人なんでしょ???
なら
自分のことまず考えなきゃ。
責任なんてとれないじゃない???(棚ぼたの褒賞は受けとっときゃええか!?)
ちがう???
自分のことさておいて
他人の責任追及とか平気な顔してやってるから
みんなどんどん人相悪くなるんじゃないの???
人相だけで済めばいいけど
もっともっと
私たちって
細かいコミュニケーションできると思うのよね。
実際やっている
けれども
あまり意識に上らないというか
言葉にして表されていない。
自分のことから始まって
他者・他物に注意が向く感じ。
しつこいようだけど
分かりにくいと思うので繰り返す。
自我の境地。
自他は分かれているようで実はそうでもない。
私たちというか、この世に存在しているものはぐるぐるぐるぐる、、、、
ほぼ無限なんじゃないか??
というぐらいに色んなものを巻き込んでいる。
自分のことから始めるとか
自分のことを細かく考えるとか
それらは決してナルシシズムではない。
自分が現に巻き込んでいる他者他物
それらのつながりを発見する。
そうして現に別々の人間やモノとして存在しているものに対峙するならば
それらから発信されているテレパシーみたいなものを感じる。
だって
それらだってそれぞれのやり方で
ほぼ無限ともいえるものを巻き込んでいるのよ。
いかにぱっと見だけで分類可能で、そうした分類が間違いというわけではなかったとしても
何かあるでしょ?
固有の
でも
不特定多数の他者から見ても
ポジティブな意味やら価値やらのありそうなもの。
そんなもなぁない
言うのは簡単。
けどね。。。
それって
自分自身の価値やら意味やらだってろくに分かってあげられていない証拠。
ナルシシズムどころか
自分のことを細かくみるってのは
内向的ってわけでもない。
真逆。
いろんな可能性のある他者他物に注意を向けるということ。
他者他物についてあれこれジャッジする前に
完璧な規律を制定してそれを守れているということにして安心を得ようとするよりも
めんどくせぇから無我の境地に至りたいとか叶える気もない夢が叶わないと嘆くよりも
やるこたぁモリモリあるんだと思うよ。