需要と供給
稼ごうと思ったら大事なんだろうな。。。
#長沼伸一郎 さんの逸話を読んでそう思った。
でも、私が大事だと考えていることって、需要なさそうなんだよね。。。
知的活動でお金を稼ぐ、というのが当たり前になってしまっている。そこが問題なんだけれども、その仕組みを今更ナシにすることはほぼ不可能。
経済活動に当たり前のように含まれている交換。それによる価値の創造。
そもそもなんで交換するのか?
それを考えることは大事だけれども、考えている間にも交換は続けられる。一人一人のニーズ( #需要 )なんてお構いなしに。当然無駄は出る。需要ないものまで「あ。それ需要あるってことね。」って作る( #供給 する)わけだから。
まあ社会で生きている以上、”一人一人の”ニーズなんて言ってられない。
その辺は私が考えていることと重なる。
ニーズなんて個々人が必要と”感じる””考える”ものではなくて、社会で生きていきつつ形成されていくものだから。
私が大事だと考えていることって、そこんところで生じるギャップ。それに自覚的であること。
えれー抽象的。。。
ギャップというのは、社会に触発されたり、時に強要されたりして形成されるものを、あたかも自ら望んで作り出したものとしてしまうところ。価値創造の成果、意義などなどをあまり個々人の手柄と考え過ぎない方がいいのだけれど。。。
まあ再三書いてきている通り、なるべく多くの人が幸せに過ごせた方がいいなーということ。。。ただ。。。
「なるべく」とか言われても。。。ですよね。。。
かなり感動的なエッセイを読んだ。
こういうことなんだけどなー。めちゃくちゃ大事でお金とかもかからない。
#愛 。
対象としての「私」をあまり必要としない愛。存在肯定。
憎しみの裏返しではない愛。
愛そのもの。
「 #万事OK です」という感覚。
急ぎ過ぎず、とりあえず「生きている」という事実に「OK」を出せる余裕。
ふぅーっと息をついてお茶を淹れる。シャワーを浴びる。本を読む。
何気ない日常的な仕草、行為を通して自らの状態を感じ、とんでもなく苦しい状況には自身を追い込まないようにすること。苦しいからこそごく普通の #ルーチン でもって時間を過ごして、少しでも日常を引き寄せる。
自分自身を愛する。 #ケア する。
対象としてではなく。
流れに身をまかせつつ、流れから伝わってくる抵抗感を感じること。
需要って感じじゃないでしょ??
需要とはなりにくいとはいえ大事なこと。エッセイは精神疾患を経験した人のエピソードなんだけれども、そうした極端寄りの経験がなくとも、感じることはできると思うんですよね。自分自身をケアするということの意味。実践としての日常の大切さ。
需要というのが私たち一人一人が日常を生きていきつつ形成されていく過程を考えてみると、一人一人の動きが材料になっているとはいえ、「需要」というカタチにする人は特定の限られた人々。そういう人々によって「需要」とされたものが個々人の行動や考え方、いわゆる”判断基準”といわれるようなものにフィードバックされる。階級間格差なんかも適宜反映される。
理想はできるだけ多くの人間が「需要」とされるものを決定する役割を代わる代わるにでも果たせることなんだけれど、中々そこは流動しそうにない。生まれながらの能力の違いもあれば、できる方の人だってそうそうその役割を手放したくはないってこともあり。出来る方の人に任せておいた方が社会全体の厚生が上がるのかもしれない。
いずれにせよ変わらず存在し続けるのは、それでも日常を生きる人々。
「需要」というのは主に金目の計算上価値アリとされるものに引き付けられやすいのだろうけれど、果たして金目の話だけだろうか?
「 #おもしろそうなもの 」ってどう?
中身を問わず、ともかく「おもしろそうに話すための話し方講座」なんてどうかな???
言葉を一応読むんだけれども、読んだ言葉とは一見全く無関係に見えるものごとについて話す、、、、とか?
「何を読むの?」っていう時に、「ああ。そりゃ読むあなた自身の心ですよ。」みたいなの。
文字・記号に囚われない。
ネタはいるね。それでも。。。「文字なら何でもいいんです」ではうまく伝えられないだろうし。。
「需要」になりそうなネタ。。。
言葉とかそれの読み方・書き方って、大事だって分かっててもイマイチ疑念が払しょくされないのって、現実との繋がりではないか?と。
私がやってきた社会科学の分野でも、特に質的分析で、言葉をデータとして扱う研究って、「それって事実なの?ただの解釈じゃないの?」っていう疑問は常にある。
社会科学の分野や、人文学の研究でなくとも、広く一般に、言葉と現実(カネやモノ)の関連性って非常に弱いと思われているのでは?敢えてつながっているとすると「カネになる」ってことになってしまって、どうしても個々人のお手柄感が強くなってしまう。みんなでお互いに支え合う、という感覚よりも。できる人は言葉で商売できる、みたいなね。
学問分野で挙げるとするなら「 #記号論 」なんだけども、日常の言葉に含まれている #論理 的な仕組み、 #数学 的な仕組みなんかを、実は読めるんですよ。読むことによって論理的な思考って何?ってことが理解できたり、実際に書いたりするときに論理的に整合的な組み立てができるようにもなる。そしてその数学的な論理というのは、言葉もそれ以外のリアルとされるものも実は区別はないんだよ。だって私たち人間だって単にここにあるということだけでなく、言葉を使った活動を含め従事する行為も全て論理があってこうして形になって現れているのだから。
そんな感じのこと。
いかような言葉でも、形になって出てきてしまえばそこには論理が働いている。
とある人々がなんだか妙に面白そうに話しているな、と人目を引くとする。
それを商売になりそうな価値に落とし込む時には論理を読む。
でも、話している最中に、話している本人たちに往々にしてそれは見えない。
なら、せめて「おもしろそうに」話そうよ。と。そうすれば人目を引いて、うまいこと市場価値に翻訳してくれるかもしれない。してくれないかもしれないし、搾取されるだけに終わってしまうかもしれないけれど、おもしろいならいいじゃん?
急がば回れ。
まずお金持ちになることを目指さない。
ひとまずなすべきは、ルーチンの確立。または、ルーチンってのは人それぞれ何がしか確立されているはずなので、そこに潜む理屈を感じ、なるべく自分の気分が軽くなるような解釈を試みる。それが「おもしろそうに話すルーチンになる」というイメージ。
扱いたいトピックは、「進化論vs.複雑系の理論:必然性vs.蓋然性」とか「対称vs.非対称のイメージ」、「表現と読みとを交互に繰り返すことの重要性:冗長性vs.再帰性」、「量と質の関係:唯一無二性と類似性・相同性」、「始原定義の重要性と曖昧性」、「歴史の書き換えは絶対悪か?」、「幸せと道徳:日常と規範」、「言葉で定義する時間・空間と物理の時空」などなど。
この辺のトピックだと多少需要はありそう。かな???
もうちょっと”ワンパンチ”でアピールできる何かが欲しいな。。。「あ。それやってみたい!」みたいなの。
思いっきりウソをつく???
『ウソの付き方教えます』って本あったら売れないかな???