英国女流児童文学作家

J. K. ローリングス、サリー・ガードナー、リサ・エヴァンス

共通する匂い

かの有名な「ハリーポッター」シリーズは、一説によると、キリスト教という宗教が下敷きとしてあるらしい。

”児童”というよりも少年少女向けという方がしっくりくるのかもしれないけれど、いずれにせよ、若年層向けということだからだろう、正義vs.悪の構図が比較的明確。

それでも、魔法の実力が上がるほど、両者の境界が曖昧になる感じとか。なるほど、”堕天使”なるキャラクターがいるキリスト教の世界と重なるところがあるといえなくもない。

キリスト教と直接は関係しないけれども、妖精さん、ゴブリンなどの空想の存在が登場して、かつては人間と共存していたという設定もよく使われるようだ。

これら空想のキャラクターの特徴として、人間には使えない魔法がある。

昔も人間は魔法を使えたわけではないけれど、妖精さん他と共存はできていた。つまりは人間の側は何かを失ったらしい。人情?思いやり?共存共栄の心?自然の中に超自然な何かを感じる力?

魔法とかマジックは、「望み」であるとか、「望みを叶える」という課題を浮き彫りにするツールともとれる。

「私は一体何を望んでいるんだろう?」

「魔法で何叶えますか?」

忘れちゃいけないのが、私が今回読んだ作品(サリー・ガードナー『Operation Bunny』、リサ・エヴァンス『Small Change for Stuart』)も、ハリポタも、20世紀末以降の作品だということ。

宗教の下敷きアリ、といえども、想定される読者は親の世代も含め、大多数はあまり熱心な信者とはいえない。

魔法も似たようなところがある(熱烈に信じていたり憧れたりしている人はそんなにはいないだろう)。

売れると判断されなきゃ書籍化すら難しい時代。それほど信じられてもいない宗教をバックグラウンドにした、善悪に関する価値観が、何故ある程度売れると判断されたのか?され続けるのか?(魔法は子ども向けファンタジーなら十分受け入れられそうだけど。)

英語の国の文学は、今も昔も、キリスト教に基づいた道徳観がお好き?

「好き」というよりも、道徳観がキリスト教由来の教えに染め上げられているので、出てくる作品も自然とそうなり、読者層も違和感なく受け入れられる感じ?

自由だ民主だと言い出した人たちだけども。。。

そんなのが許されるぐらい、「道徳を宗教に丸投げてでも、規律に従うのが善」という文化が根付いているのかもしれない。

少々”言論活動”が盛んになったところで、統治者側もほぼ問題ないぐらい、人心が一つの方向に自然とまとまっている(例:上層も下層も関係なく階級社会的イメージが共有されている)。という疑惑アリ。

この疑惑を踏まえると、滅私奉公というと和風な印象だけれども、”滅私”というのは権力や社会システム(コミュニティ含む)に対して個々の欲望などを抑制することではなくて、実は、ややこしい道徳的な問題を他者(例:神さま、世間)にぶち投げること、なんじゃないか?と敷衍できる。

道徳は宗教ではないし、宗教も道徳ではない。

ところが、いわゆるキリスト教圏の人々は、おそらく意識していないことと思うけれども(だからほぼ自然に)、両者を同一視している感じがする。

「ほぼ自然」なので、形式上は「道徳を宗教に丸投げ」なのだけれども、本人たちにその自覚がない。この「自覚がない」というのが、最もパワーを発揮しやすい素地を形成している。相当頑健に。

どういうことか?

道徳は実は困るのよ。みんな。どうしよっか?ってね。

なぜ?

ほぼ本能的に善悪については判断してしまうから。

宗教や科学のように、何か体系的な知識が出そろう以前の問題。

体系的知識などなくても、私たちは善悪について意見を形成することができる。というか。形成してしまう。

この無根拠さが、宗教であろうと科学であろうと、知識の体系化を求める。

「無根拠なのはイヤだ。」

好き嫌いの問題なの?と思うかもしれないけれど、実際問題として、争いは度々起こる。これは防げない。本能的に、何となくの勘で下す善悪の判断が、異なる人々の間でいつもシェアされ、常に合意に至るなんてことはあり得ないので。

そういう些細とはいえ、争いが日常茶飯事なら、さすがに避けられるものは避けたいなー、ぐらいには思うだろう。

規則性を探って、順次正確さを追求していく。目指すのは普遍性(完全には無理だけど)。

現代の科学は、随分とお堅いやり方。証拠に基づく検証。仮説も先行研究で確認された因果関係、物質の定義などなどを踏まえて立てられる。

昔々の宗教が体系化されていく過程は、どちらかというと信心であるとか、規範的なものを第一に整えようとし、その目的のために必要とあらば、モノの分類であるとか、様々な性質の定義などなども、なるべく整合性が保たれるよう整えられていく感じ。

少なくとも西洋キリスト教文化では、宗教と科学は歴史的に繋がっている。

体系化や規則というものは、より多くのリソース(物的・人的・その他)を動かしたい方が望む。

庶民レベルでは、ルールを押し付けられることによる苦難はあれども、ルールの意義は理解できる。それは多くの場合、比喩的に、自らの日々の経験上、混沌よりオーダーの方が、争いよりは平安の方がよかったな、というようなメモリーなどと照らし合わされている。つまりは、押し付けられるルール自体の意味を都度理解し、受け入れているわけではない。簡単に言えば、力の差があるから仕方ない、という感じ。

この「仕方ない」が、意図していないのに、ルールを押し付ける側の考えや作法を代弁するようになる。別の言い方をすれば、力の承認。

パワーには逆らえない。

口では自由だの平等だの、なんのかんのと言ってはいても、階層的な社会のイメージは固く保持されている。

本来、道徳なるものは、そうした個々のより深層に横たわっている価値観について、惑わされるもの。

現代では奴隷はダメだけど、低賃金労働ってどこがどう奴隷と違うといえるか?

そのようなことを考えられない人々を、考えられる人は救うんじゃなくて、自分たちをリスクから守るためのバッファー(いわゆる人柱)として利用しているんじゃないのか?

組織や社会が階層化することはどうやら避けられない。

とはいえ、それは、人間同士で「仕方ないことだよ」と言い合って納得し合っていられるようなものなのか?

どちらかというと、宗教的な言い方をするなら、「階層化」は神が人間に与えられた試練。世の中をなるべく平穏平安に治めるため、人間がともかく従ってさえいればいいルールのようなものではない。試練である以上、避けられない階層化がために、私たち一人一人に多かれ少なかれ巻き起こる道徳的な葛藤。これに向き合いながら、唯一絶対の正解なんて永遠に不可能でも、ベターを追求し続けなければならないはず。

読んでいて何となく教条的というか規範的、砕けた言い方をすれば、”訳知り顔”な感じが漂うのは、道徳的葛藤の持つ深みのなさ。それは少年少女向けの物語りだから、というだけではない何かを感じる。

自己振り返りというのは本当に難しくて、実質終わりのない営みなのだと思わされる。

とにもかくにも。

人間は神にはなれない

この分かり切ったアフォリズム(格言)について、分かり切ったことと片付けるのではなく、私たち人間の心にいつ何時でも発生し得る傲慢さを感知し、よりよく知るために、適宜思い出すようにしたいものだ。

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