デフォルト

意識と無意識の狭間?

何かあったら意識の領域に入れるような状態?

で。実際意識無意識を出入りさせられるような刺激がちょくちょく入ってくることによってメモリーなどに残されるような経験がたまっていく。勿論忘れられるものもある。

ただ、そのちょくちょく入ってくるような刺激がなければ基本無意識。つまりメモリーにたまるような経験はない。であるからして、その部分に対してあれこれ指摘してみても言われた方は意味が分からないことがほとんど。

まれに「何のことかよく分からないんだけども、言ってくるってことは何かあるのかもな」ぐらいの注意を向ける人もいるだろうけれど、おそらくそういう人はかなりな少数派。

デフォルト状態というのはそうそう揺さぶられないからこそデフォルト。

そんなデフォルト状態が多くの人々の間でシェアされている。

そのようになる要因はよく分からない。

文化とか慣習とか?それとも生まれつき?

多分文化かな?言葉の意味とかも含めてのカルチャー。流行りの文句に反応する感じ?一人一人がどのように感じて反応するのか?はバラバラかもしれないけれどトリガーとなるものがなんとなく似通っている?

意識無意識の狭間にフワフワ浮いている状態から、自分の内面からくる動機でもって、よっこらせっと意識へ入ろうとすることってできるのかな?とある言葉(流行り文句など)のような外からの刺激なしで。

言葉の意味は独りでは創り出せなくて、とある単語をとある意味で使っているってことは、細かい”意味合い”は固有のものと主張はできても、その固有のものを引き出す土台みたいなものが必要で、それは世間にある程度出回っている意味のはず。つまり、自分以外のものから全く何も借りずに固有の意味を創り出せるわけではない。そういう意味では個人が自分だけの力で無意識から意識へ移行している、とは断言はできないのかもしれない。多少なりとも他人の手を借りている。遠くの人か近くの人か?実在の人か空想の人物か?は様々だろうけれど。

ただ、物を書いたりする人たちというのは、自分の意思で意識の領域へ向かう力(割合?)が大きいのではないだろうか?

とはいえ。

何をどのぐらい、どのへんを借りて意識を呼び起こすのか?はそういう人々の間でも違いはあるだろう。流行り言葉専門、古典好き、ジャンル(音楽とか映画とかその他趣味の領域)次第で新しい古いは関係ない、などなど。


オリジナリティという言葉がある。

最近じゃあそれも全くこの世のどこにも存在しない自分だけの何かを無から創り出せる力というよりも、世の中に存在する無数のリソースの動員の仕方の独自性、という捉え方の方が一般的になってきているのではないだろうか。

引っ張ってきてつなげるものは既存で誰かの手が既に加わっているとしても、引っ張ってきてつなげるやり方というのは個々のオリジナルと言ってしまっても何らおかしなことではないだろう。

では、その引っ張てきてつなげちゃろう!という意欲というか動機というものは一体何なんだろう?どこから来るのだろう?何か?は分からないけれど、出所は個々人だよね。当然。で。そういう意欲とか動機とかいうものってみんなどれぐらい丁重に相手しているんだろうか?

いえね。

結局表現しちゃえば少なくとも一部は借り物なわけです。

でも表現する直前まで抱いているであろうものはまごうことなきオリジナル。いわば自分自身。それをいろんなものをお借りして表現する。借りているからこそ表現されたものが何らかの意味を持っているものとして理解される。評価の仕方は様々なれど、また、どれぐらいの人が理解できるか?できないか?も様々なれど。

でね。

表現される直前までのまごうことなきオリジナルってのは、表現してお終い、ってより、こと現代においては、表現されたものがどう理解されるか?まで気にしないと独りよがりという感じでどちらかというと否定的に見られる傾向にある。

それは間違いではないと思うのだけど、ちょっと他者からの評価ってものに重点が置かれ過ぎてはいないか?と。

表現したものが理解される。その威力というものはデカい。表現者個々の内面に及ぼすインパクトも、世の中を渡っていくための資源を獲得できるかどうか?という意味でも。デカいからこそ注意が必要なんではないか?と。


ついついイラっとしてしまうってことはいくらでもあるし、これを完全撲滅させるなんてのは無理だし、ただ試みるだけでも、逆にあまりいい結果にならなさそう。

でも、ついつい誰かを敢えて侮辱的に扱うってのはなんとかできるんじゃあないのか?

やってしまっているのに全くそれに気付かないってのもある。

気付いているんだけれど、なんとかかんとか理屈を付けて、別に生きていられない程悪いことはしていない、ということにして、そういう言い訳でごまかすのが完全に習慣付いている場合もあるし、習慣とまではいかない、つまり、気付く度にちょっと困ったりしながらも、ほとんど反省しない場合もある。勿論反省する場合もあるだろうけれど。。。どうもそこ(反省)まで行っていないケースがほとんどのように感じられるのよね。。。

そういった様々な対処法の違いはともかく。

そもそもなんで大した意味も意義もないのに誰かさんのことを差別したり侮蔑したりできるんだろう?

明白過ぎることなんですが。。。

差があるから。

差がある時に、こっちが良くてあっちが悪い(劣っている)という区別の付け方をするのはもうほぼ自然の所作なんだと思っていい。


ここ。無理しちゃいけない。ここでの無理が全ての歯車を狂わせる。


最近とみに思うのだけど、現代って、なんだか自分自身の考えがまとまるより遥か以前に「これはやっちゃだめ。やるべきでない。」「これやった方がいい。やるべき。」みたいなのがどっと押し寄せてる感じがする。

押し寄せられれば、特に若年のうちは対応せざるを得ない。

そこで「なんですかぁ~」って本気で分からない顔していられるのならそんなに苦労はない。

やっぱり力弱いうちは聞くよね。あたかも力持っている風の人々が言ってくることは。。。

問題は「聞く」って言ったって、言ってくることの隅々まで理屈で理解なんてできはしないこと。

分からないのにとりあえず聞く。

それも仕方ないことなんだけれど、えらい損失を及ぼしていると思うのよ。個人個人にも、社会全体としても。

すぐ思いつく対策は、言うこと聞かせる側が、「あれ?こいつ。分かってないのに分かった分かった言ってるな。」っていうのに気が付いたら、分かるように説明する、ってのがあるんだけど。。。実際問題としてそれはあまりにもまどろっこしすぎるし、言い方によってはさらに悪循環に陥る可能性が高い。。。言えば言うほど「はいはい。分かりました。分かりましたってば。分かったって言ってんじゃないのさ。。。」みたいなね。。。余計に拗れる。

やっぱり、言うこと聞かせることができる強い方がコントロールして何でもかんでもお仕着せない、ってのがいいんだけどなー。ゆっくり目にやる、とか。


いい経験が欠如しているんだろうな。

分からないでも聞いていたことが、ふとした瞬間に分かる!!というような。あれば待てると思うのよ。インプットしたらすぐにアウトプットが出なきゃおかしい!ではなくてね。

そのうち分かる。絶対分かる。何てったってそれが真髄だから。

ぐらいの確信と信念と他者への信頼を持てていない。先輩というか知識の面で間違いなく先を行っている人たちが。

よくみかけるのが、あーあ。正しいことなのに。。。分からないんだ。。。みたいな感じで見棄てる人。

それって自分自身の持っている知識を貶めているし、それを知っていると主張する自分自身のことも却って貶めることになると思うんだけど、何故かそれでも仕方ないみたいに諦めている感じ。

全然仕方なくないと思うんだけれども。。。

やっぱり自分で自分のこと貶めてちゃさ。。。

他人に敬意なんて払えないんだと思うのよね。。。

凄いシンプルな方程式だと思うんだけれど。

何故実践されないんだろう?


世の中が複雑であることは分かる。

自分自身のことと言ったって複雑であることも分かる。

でもやっぱり敬意払わなくていいってことにはならないのよね。

いい経験。

時間差で来るひらめきを待つ時間。

なんとかかんとか創り出していくしかないよね。


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