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気になっているのに言えていないこと

https://note.mu/hamaokahlisboa/n/n3edaba74b1f9 ←大風呂敷とやや関係すること。

修正したい大きな誤り

人は変われる。

種々制限はあるけれど。

結構色々変われる。

それでも、致命的なエラーというものもある。

サイボーグとかマシーンとか。

人間以外の生き物とか。

そういうのは無理。

想像上の話だけならいいんじゃないの?

ケンシロウとかスーパーサイヤ人とか。

想像上のことならね。

でも、現実の自分とくっきりはっきり区別ってできるのかな?

「変われる」とはいっても、現実の自分がなくなることはない、って感じかな。ほんの一部とかでも。

現代社会で言説を弄して目立っている方の人々って「無責任だなー」「躊躇ってもんがないよなー」という印象だけが強かったんだけれども、様々な要素が絡み合った結果、「自分を消去してしまっているのに、それに全く気付かなくなっている」んだと思えてきた。

「自分を消去」とは?

価値中立性に始まって、それは「無理」と認めて、バイアスかかることを認めているんだけれども、「バイアスを認めることは価値中立に近い」とあくまでも価値中立への憧れが捨て切れていない感じ。

あくまでもバイアスより価値中立の方が「いい」らしい。

そう考えたくなる根拠は?

バイアスみたいなややこしいもんにかかずらわっていたくない?

「遅れている」感じがする。

バイアスはリベラリズムとか中立公平の原則に反する?

ともかく「バイアスかかった自分」という現実(現物)をほぼ無視、抹殺している。

バイアスを認めるだけではバイアスかかった自分をないものとすることはできない。

別の方向から表現してみると、「価値中立の『よさ』を誤解している」ともいえる。

価値中立は、あくまでも共通スタンダードになるような枠組みをより多くの人々の間で共有可能にするためのもの。共通枠組みのようなものを便宜的に仮に(常時見直し必要なものとして)設定するという前提であるはず。

共通枠組みがあった方がコミュニケーションがスムーズ。ひどい誤解も避けられる可能性が高まる。経済活動も盛んになる。

意思疎通やモノやサービスの交換など、日常生活で実現した方が望ましい相互利益のため、価値中立ってことにして、共通枠組みの下活動することとしたところで、皆が無条件で従えるような究極の法則のようなものが見つけられるわけではない。ってことが分かっていない。

或は、価値中立なるものは、関係性の中で、よりそれに近い状態を、協働して(仮にだけど)現出させるものであって、どこかにそのような状態が存在しているようなものではない。ということが分かっていない。真面目に探究すれば見つけられる、辿り着ける、と誤解している。

個々人がそれぞれ自分のバイアスを認めれば、他者との関係もうまくいくだろうと信じている。相手のバイアスについては、相手が認めてそれなりに対処するだろう、すべき、という理解。やさしくない。というか。それだと良好な関係は取り結べない。ということが分かっていない。

他者の内面詮索は避けた方がいいけれども(「自分のバイアス×他者のバイアス=収集付かず」みたいなことになりがちなので)、他者のことだって「なるべく間違いないように理解したい」と思う気持ちは否定すべきではない。道義的にも、実利の面でも、また、現実問題としてそのような欲望があるかないか?というと僅かなりとも存在し続ける、という観点からも。

内面詮索の醜い部分を強調するあまり、詮索(バイアスのかかった分析や思い込みでしかない断定など)を止めたわけでもないのに、「あくまでも客観的事実、外形的な証拠に基づいた観察をしているだけだ」と強弁しようとする傾向が増す。もはや、そのように信じて疑わない人間も多数いるようだ。

個人偏重。関係性の理解不足。

「バイアスを認める」というのも実は傲慢な思い込みに過ぎない。自分自身のこととはいえ、バイアスについて完全に把握できているとは限らない。

このようにして消去されてしまっている「自分(それぞれの人が現に生きているという事実)」を取り戻したい。

オートマチックに善を保証してくれる法則のようなものはないんだということ、言い換えれば、私たちは気付いていなくとも、なるべく負担を感じずに「間違ってない」と思える根拠(願わくば「よろしい」と言ってくれるような超越的存在、普遍的な自然法則のようなものもその一つ)を探していて、その探索はやめられない、ということを共通理解として持てるようにしたい。

「バイアスに満ち満ちた自分が、『バイアス?あるよ』って認めるだけでは決して無くなりはしない」という事実も、個々人が各個マネージすべき問題と捉え続けていれば何の進展も期待できないだろう。

個々人で考えることなどどこまでいっても思い込みなのだから、他者との関係性の中で、であるからして、動的に自他の思い込み同士の平衡を求める感じで、解決しようとするしか方法はない。

価値中立性や客観性に過度に依存する、強弁して他者に押し付けるような方法からは脱却できるように。

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