組織が人を作る場合(レクイエム?)
ずっと心に引っかかっていることがある。
私は約15年程国際開発協力の分野で仕事をさせてもらっていたのだけど、そこで働く人々がどうも一様の傾向に沿って変化していくように見え、ちょっと不気味に感じていて、それが未だに頭の片隅というか、胸の奥?に引っかかっている。
主に大学を卒業して働き始めるいわゆる新卒採用の人々のことを指しているのだけれど、不気味さというのは、実は、そうした純粋培養の人材ではなく、人生のどっかの時点で途中から国際開発協力の分野にコンサルタントやその他それに類する職種で関わってきた人にも同様の傾向が見られる、ということの方が原因であるような気がしている。
国際開発協力というのは、日本の政府開発援助(ODA)に限らず、どこの国(ほぼ先進国)・国際機関(主にUNの諸機関)が実施するものでも、私の理解では、国際政治・外交の(消極的)手段の一つ。慈善事業でもなければ、国際経済の枠組みに影響を及ぼすという意味での経済政策/開発事業でもない。乱暴な言い方をすると、諸事情により完全無視ができないので、仕方なく繋がっているように見せている、ということ。
そうした張りぼての役割しかないものではあっても、中で働く人々はリアルな生きている人間だ。仕事なんて、どんなものでも、何が建前で何が本質か?を考えた時、大なり小なりのギャップがあって当然。ただ、国際開発協力の場合は、建前と本質とのギャップが特別に大きいと感じる。中の人々がそうした当然感じているはずのギャップの、その「本質」を見ることができないほどに。
人は万能ではない。
あまりにも自明過ぎるね。そんなこと。
距離が離れれば想像するのも難しくはなる。
建前と本質だって理屈は同じ。
リアルに本質を生きているのだ。それ以外に本質なんてないだろう。
今のように個人個人が責任をもって生きていることになっていれば、益々その傾向は強まる。
建前の世界があまりに遠いなら、個人個人が勝手に都合よくストーリーを作っていられるわけだ。
「真面目に頑張ってます」的なストーリーを。
国際開発協力の特殊性は、建前があまりに張りぼて過ぎること。”張りぼて過ぎる”とは、中で働くリアルな人々が各自自分なりに描くストーリー群を、「おっ!それいいね!」ってほぼそのまま張りぼてに使っちゃえるということ。貧困削減、弱者救済、人道支援、機会の平等、万人への基礎教育に保健医療サービス提供、起業家育成、社会資本、持続的開発に環境配慮。。。張りぼてには何も描かれていないので、張りぼてを作る側としては、耳ざわりのよさげなストーリーでもって絵を付けて、その「絵を付ける」という行為でもって公の役割(国際開発協力に関する政策などの責任者たること)を果たす。つまり、本質なんてなぁどーでもよくて、現場でよしなにやっとくれ、ということ。
なんだ!じゃあ理想的なボトムアップ、現場主義じゃん!最高じゃん!?
ところがどっこい。
公式には、みんなでストーリー描いてね、なんて言われてないんですよね。むしろポイントは、公の使命ではないからこそ、勝手にストーリーが編めるというところ。相応の責任が発生するなら、勝手気ままなストーリーなんて語ってはいられない。そういうもの。
国際開発協力のリアルな業務というのは、どちらかというと、お役所仕事なもんで、官僚制的階層とそれに沿ったかなり厳密な手続きに基づいたマネジメント。できることも法令で規定。誰も勝手に思うままお仕事ができるなんて思ってはいない。勝手気ままなんてのは無理にしても、現場で働く下々の意向が業務を規定する法令に反映されるなんて淡い希望でも持っている人はまずいまい。
人ってバカじゃないからさ。自分たちがどんな組織で働いているのか?なんて何となくでも分る。官僚制的階層のマネジメントなら、やたらめったら上司や監督官庁に(仲間内での立場向上のためのパフォーマンスとか、陰で小馬鹿にはしても)逆らうわけもないし、独創性とかいって自由闊達に法令解釈に挑むなんて人もいない。さらに賢いことには、そうした”型通りの文化”が基本にあると見るや、「自分は”ちょっと”違う」というストーリーだって編める。常に確たる軸となる文化・慣習があるんだから、それを目安にしてちょいちょいっと違いをアピールするなんてはっきりいって超カンタンなこと。
そのあたりなんだろうな。。。中の人々が不気味に一致した年のとり方するのって。。。
みんなそれぞれ「ある程度は創意工夫に努めている」と信じているんだけど、よっていろんなやり方で少しでも良くなるようにと工夫しているんだろうけれども、参照している定型がみんな同じなものだから、結局目に見える行動も見えにくい考え方も大して変わらない(定型から離れることはない)。
定型の方がずぅーーっと安定的に「(定型を逸脱しない範囲で)どうぞご勝手に」なもんだから、中の人々には自分なりのストーリー作りに当たって感じるプレッシャーが極端に低い。
”ガラパゴス化”
私の極々パーソナルな感想なんだけども、国際開発協力の業界にそもそも働きに来るような人は、ちょっとだけ一般的日本人とは違っている。対外開放的?異質なものへの拒絶よりは好奇心?そんな感じ。
それが、年を経るにつれ、どちらかというと一般的日本人に戻っていく感じ。開放性とか好奇心は日本人社会での優位性確保にフル活用される感じで。
年を取れば丸くなる?所属組織内でのポジションの変化?
角がとれる、全体を見渡してバランスが取れるようになるってのはいいことなんだけれど、、、。
なんかおかしいのよ。
だってそもそも日本人規格をちょっと外れた人が、一般的な日本人とはかなり異なる経験(開発途上国でお仕事)を経た結果が、みんな同じ日本人って。。。なるの。なんで?
本人はそれぞれ「日々創意工夫をもって、一般的日本人とは多少なりとも違った視点・観点から、国際開発協力というなかなか携われない、かつ、人道的にも重要な業務に従事・精進している」って思い込んでいるんだけど、実際はプロパーな日本人の一人でしかなく、何ら本質的違いをもたらしていないばかりか、、、大多数のもつ性質(ガラパゴス的独り善がり)などを益々強化させているだけって。。。
それって気持ち悪い。。。少なくとも私は。
楽に自分なりのストーリーが作れるって、、、あんまりいいことばっかじゃないんじゃないのか???
本質に無頓着になることは案外恐ろしい
ちょっと待って!
外圧の低い環境では、その環境内に暮らす個々が全体として独特の進化の経路を辿る。。。
それは本当かもしれない。
でももっとおかしなことを見落としていないか???
現行の国際開発協力の本質は「万人の目にやさしい張りぼてであり続けること」。
ともかく「誰も完全には見放されてませんよ。」とアピールし続けること。
でも肝心の”張りぼて(建前)”にはほぼ何も描かれていない。どうやって繋がりを維持していくか?そのように見せかけられるか?
では張りぼての中でリアルに働く人にとっての本質とは何?建前とは何???
張りぼてに本質的材料を提供することが中の人の本質的仕事?
それともそれはあくまでも張りぼてのための材料なだけであって、国際開発協力のリアルな本質というのは、また別の所にあると理解すべき???日々お仕事に従事している経験、張りぼての材料としては直接は使えないようなリアル。
こうして考えてみて透けて見えてくることは。。。
人間面倒なことは考えない。特に強烈な外圧でもない限り。。。そして、、、
張りぼての中でリアルに生きるって。。。
想像以上に大変なんだなということ。
建前だの本質だの言ったって、結局どっちも仮想現実でしかない。
お前らの仕事なんて所詮耳ざわりのいい国際協力のストーリー、開発事業が人々の役に立っていると思わせるストーリー作りでしかないんだって無言で言っている強大なパワーがある以上、いくら自分たちの方がリアルな現実を体験しているんだ!と思っていたところで、その手のストーリーがまともに取り上げられるわけがない。
そんな環境で、自分たちだけのリアルなストーリーのみを信じ、拘るなんて普通はできないし、現実として厄介者扱いされるのがオチだ。理想はええけども、とりあえず張りぼてに使える絵描いてよ。。。
賢く生き残ろうとするなら、そこそこ大嘘にはならない線を確保して、仲間同士助け合ってやっていくべきなんだろう。
クールだね。
まあ内心の深いところでは誠実に貧しい人々、不利益を被っている人々の助けになりたい、と信じてはいるわけだから、批判されるいわれもない。事実、大きな負担になっているのは、そういったリアルな気持ちを表明し、リアルな現実に変化をもたらす方法が極端に限られている、或は、実質何もない、ともいえる状況にあるのだから。。。リアルに働いている張りぼての中の人々の責任ではないだろう。
現実が今日も変わらず流れていくのなら、多少の問題には目をつぶろう。そして忘れ去られていく現実。
強大な敵とは分かってはいても、直接脅かしてこないなら立ち向かいようもない。
敵は自らの内にあるのか?外にあるのか?さえ判然としなくもなるだろう。
キミたちとは違うよって言うそのキミたちに似ていくという皮肉。
どうしてそんなことになるのか?
一つに、注意が向いている以上、それに似るのは自然の摂理。
一つに、違う違うと言うだけならひな形がある以上は簡単なこと。
一つに、私たちの意志の力って実は弱い。特にイメージできていないものには決して届かない。
偽りの虚像のためにリアルな身体を駆使して働かされるというのは、物事の本質を見極めようと思うなら、非常に高度な想像力が求められるということだな。
本質と建前の二元論では全くイメージもできない。
もう一回反転させなければならない。本当に現状を変えたいと願うなら。
自分が真面目に取り組んでいることだけをリアルと信じているなら、まず反転なんて起こらない。
しかし逆説的なことに、反転を起こすためには、「個人個人のリアルなんて誰も分かっちゃくれない」って思い込みは棄てなければならない。そう。自分のはともかく、他の人のリアルを掬い取ってやる!という気持ち。愛。
そうすることでようやく気付くことができる自分自身の内なる弱さ。
とまあ。
無理だってことだね。
特に、「一生懸命真面目に生きているならそれ以上考えるべき(”可能”の意味も含む)ことはない。ほら。周りを見てごらん。アナタと同じ人が沢山いるじゃない?それこそがアナタの一生懸命真面目が”正しい”証拠よ♪」なんて、似非相対性理論Maxの甘えた環境(日本も国際開発協力畑も)から得られる特異な安心感を棄てられない人間にはね。。。
そりゃ日本のODAに関わってりゃ典型日本人をそのまま倍以上に強化されたスーパー日本人も出来上がるさ。
こういう難題を何とかするためにも、まずは手を付けられるところからだな。私としては。
”とりあえず生き残ること”が大手を振って正当なストーリーであり続けるような世界。それは幸か不幸か国際開発協力畑や日本だけのお話ではない。それを変えたいのだから。