【推論】(未)成熟
人間も生き物だし、生きている時間が長ければ熟すというか、、、いろんなものが発達していく(そしてやがて衰えて死んじゃうんだけど)。
肉体的なものは結構早く(二十歳代そこそこぐらいから)下降線を辿るのだろうけれど、人間50年どころか、今は80年とも90年とも言われる中で、内面というか、知識というか、、、そういうしばしば人間特有とされる面については、できることなら命絶える時まで成長していられたらなぁ、、、と思う。
ところが、私の短くも長い50年の人生の中でいろんな人間やその行動・言動を見るに、齢をとったからといって年齢に比例とはいかないまでも、多少の波はありつつも、人間賢くなっていったり、落ち着きが増してきているという風には感じられない。一言で印象を書き表すなら「浅い」。齢をとればとるほど、その時代その世の中で”適当”と信じられている行動・言動に熟達すればするほど、どんどんとうすっぺらい人間が大量生産されている感じがしてならない。
人間の特徴の一つとして、「なぜ(Why?)」「どうして(How?)」を問いたくなる、問わずにはいられない、というものがある。
私は、世の中の様々な問題や事象について、人それぞれの内面に原因を求めようとはしない方がいいと思っている。けれどもそれは人それぞれが自他ともにそれぞれの内面についてほったらかしにしといてもいいということではない。
世の中の様々な問題や事象について、一人一人の内面に原因を求めない根拠として客観性がないという説をとる人は割と多い。客観的に分析・検討され、とるべきと確認された手段がとられるなら、一人一人が心の中で何を考えていようが、どう感じていようが世の中の問題は解決されるはずだし、結果としてうじうじ不満に思いながら動いていた人たちだってハッピーになるんじゃないの?
そういうことは起こるかもしれない。
ただこの説には論理的な破綻がある。
「ぐだぐだ言ってないでやることやりゃいいんよ」ってのもそうだけど、結局人々がどう評価するか(例:ハッピーとか)に言及せにゃ結果の妥当さも明言できんのだから。。。むっちゃ結果と内面に拘っているというか、、、全く両者の関連性を切断できていないのよね。。。
逆説的というか皮肉な感じがするんだけれども、切っても切り離すことなんてできないもんは、「切れ切れ」言えば言うほど離れ難くくんずほぐれつしてしまうものなのだ。
内面と行動なんて別々に扱えるわけがない。内面と言動なんていったら絶対ムリ。
繰り返しになるけれど、一人一人の内面に対してはそこに世の中の諸問題の原因を求めないのであって、あたかもそれが存在しないかのように扱うわけではない。
言い方を変えるなら、一人一人にはそれぞれ感じていること、考えていること、理解していること等々があるからこそ、つまりはそれらがなければ、諸問題に対する適切な理解も解決策も何もかもがあり得ない、ということ。
「ああ。それなら合理的に客観的に考えたり理解したりする部分だけ活動させれば。。。」なんてこともまあ無理やろね。。。
基本的に境目は設けられない。違いはあってもね。。。
内面と一言で言ってもそこには本当に様々なものが含まれている。感情、理性、知性、、、と大まかに分けられたとしても、現実の人間の内側(?)でどんなことが起こっているか?を考えると、その細かさからしてもきっちり分類し切ったところで何かええことがあるとも思えない。
ただ一つ。これが【推論】の中身なんだけれども、「道徳」ってのは長く生きても成長するとは限らず、逆にできるだけ目に付かないところに押し込められる形でそのパワーを失っていくこともあり得るのではないか?(「のではないか?」じゃなくて私の目には実際そうなってきていると見えるのだけど。)
「道徳」って何?というと人間という生き物は、たとえ意識はしていなくとも、「いい方ががいい」というような肯定的な方向性を持っている(持たされている)と私は思っていて、そのこと。
ほぼ本能といってしまってもいいと理解している。
その人の行動の原動力というよりも、いかなる行動という結果にも(後付けでしかなくとも)「いい方がいい」というような方向性は存在している、という感じ。
行動などのように目に見える何らかのカタチがある場合には、漏れなく、そのカタチを表したその人ならではの存在の仕方というものが否定しがたく存在する(した)、とでも言おうか。
つまりは、存在しているというただそれだけのことでも、極微小な肯定感があるということ。だって、「ない」「いない」のような否定ではないなわけだし。おまけにこの肯定される「存在」なるものはとある行動などよりはっきり確認し得るものにもつながる可能性(ポテンシャル)があるわけで。。。という程度の肯定の感覚( #ハイデガー っぽい感じ?)。
「ある(生きてる)だけで価値あるんか?」とか言いたくなる人間が多い現代だけどもね。あるもんはあるわけで。。。価値やら利便性?便益っての???とある時代のとある場所でのとある計算方法・計数法とかではじき出される数字なんぞのようにちこっとパラメーターいじるだけで変わっちまうようなもんと「存在すること」とはそもそも次元が全く異なることかと。価値やらなにやらなんてどうとでも言えるってことね。(「何にもないってこと それは何でもアリってこと」(Rocket Dive by hide and Spread Beaver)の逆(対偶?)ってことで、、、全く推奨できないやり口よね。。。)
とはいえ「道徳」ってもんがこの世にある(生きてる)もんには誰にでもあるってんなら不遜なことを平気でぬかす現代人にだってあるわけで、既にちょこっと述べたとおり、「できるだけ目に付かないところに押し込められるような形でパワーを失っている」というだけ。
ならば次に問われるべきは:
何故、どのような経緯で、道徳ってあんまり目立たない方がいいという傾向が強くなったのか???
長くなったので答えは次回に回すけれども、ここで言っておかなければならないことがある。私が同時代人に感じる「浅さ」「うすっぺらさ」と「道徳」の関連性。
客観性と主観性の不可分性には先にも触れたけれど、この手の明らか過ぎる論理的なつながり無視がむちゃくちゃ安易かつ乱暴に行われているように見える。
合理性客観性については個人主義(合理的客観的な個人を想定・推奨)なのに社会やら国家やら組織やら何やら擬制の主体を平気で登場させて世の中の諸問題や事象について語る。個々人が合理的客観的なら、彼女/彼らが属する擬制の主体も合理的に振舞うのだろうか?または、現代社会で広く認知されている擬制の主体というのはそもそも合理的客観的にしか振舞わないのだから、そこに属する個々人は合理性客観性のみしか稼働させられないはずだ、という仮定なのだろうか??よく耳にする”責任転嫁”とも表現できるかもしれないけれど、”責任”とか”義務感”とかいうと、倫理規範に関わるっちゃあ関わるんだけれども、私の言うところの「道徳」を無視するということは、細かい論理的なつながりに対する注意が非常に欠落してしまうという意味で、より合理性に関わることなのだ。
ハイテク機器を使って客観的データを収集して、数理的に間違いのない数式にぶちこんで正確に計算したからといったって、それをやってる人間が合理的個人かどうか?なんて何も保証されないのよね。「私は合理的である」と主張する人間は、合理性を主張するという行為こそが非合理の証拠となり得ることを知らない。
まとめると、私の懸念しているところの「道徳」なるものの衰退或いは欠如、もしくは(おそらくほぼ無意識的な)”秘匿”というものは、合理性なるものに対する注意缺欠或いは恣意的な解釈による論理捻じ曲げであって、この「道徳」の存在感の薄さや合理性の冒涜が、現代人の「浅さ」「薄っぺらさ」の根源にあって、ひいては年齢相応の人間的熟成を妨げている、いやむしろ退行的に幼児的な考え方・振る舞いを蔓延らせる結果になっているのではないか?そう疑っているところである。
多くの人々が大昔の”伝統的”人間よりは合理的で客観的なデータに基づいて意思決定できていると思い込んでいるようだけれど、そういう”思い込み”に、自分たちが実践していると信じ、他者にも推奨するところの合理性を冒涜する心が潜んでいるなんて、なんとも皮肉なことではないか。本来人間というのは道徳的な生き物なんだけどねー。