目の前の1人のために。〜陸前高田市広田町でまちおこしした話〜
チェンジメーカースタディプログラム、通称CMSP。
岩手県陸前高田市広田町を拠点に行われる、大学生向けの地域おこしプログラムに約2年前の3月に参加した。
当時、次年度休学を考えていた。一緒に休学をしようとしていた友人に誘われ、CMSPの説明会に参加したら、あれよあれよという間に岩手に行くことになっていた。決め手は友人の言葉だった。
「もっとはまののことを知りたい。」
かくして、大学3年の春、3月11日から一週間岩手に行くことになった。
本気の目をした同世代たち
現地に行く前に、東京で事前研修があった。
CMSPでは、同じ期間に同じ地区に滞在するグループを○○期と呼んでおり、私は45期だった。45期の仲間は20人くらいいた。
イマイチ何をやるか飲み込めていなかったまま始まった事前研修は、驚きの連続だった。
各期にはリーダーとスタッフ数人が割り当てられていて、彼ら彼女らが半年かけてこの一週間のプログラムを用意する。しかも、みんな同じ大学生だった。
そして、広田町に対する熱意がすごい。彼らをここまで本気にさせる広田町とはどんなところなのか。
海辺の小さなまち、広田町
東京から広田町まではとても遠かった。新幹線で一関まで行き、そこから電車とバスを乗り継いで何時間もかかった。
着いたそこは、町にひとつしかないコンビニが19時で閉まるような、海辺の小さなまちだった。
広田町には東日本大震災の時に津波の被害を受け、家が流されてしまったりした人もいた。
地区の中で分裂が起こり、運動会などのイベントがなくなってしまっているのが課題だった。
新潟で生まれ育った自分にとって、東日本大震災の影響が、これほどの時間が経ってもなお残っていたことに驚いた。初めて、「東日本大震災」というものに身近に触れた気がした。
はるばる岩手まで来て、私には何が出来るのか。
一週間のプログラムが始まった。
失ったものはもう戻らない、けれど。
津波で家を失った人もいる。
大工だった人が病気で大工仕事ができなくなった。
認知症で記憶がなくなってきている。
失うということはとても悲しい。
そして、失ったものはもう戻らないからと諦めてしまっている。そんな人たちに広田町で出会った。戻らないと諦めたらもう戻ることはない。でも、諦めなければ新しく手に入るものもある。なんとかしたいと思った。
家が流されてしまった、守さん。
病気で大工仕事ができなくなってしまった、京一さん。
認知症で昨日来た私たちを思い出せない、しげ子さん。
どうしたら、希望を持ってもらえるだろう?
地域の人たちと触れ合いながら考えた。
Yes!海鮮丼ファイブ
45期の中で、また3グループくらいに分かれて活動をした。
写真は我らが海鮮丼チーム。
私たちと関わる全ての人たちに対して、「こんなことできると思ってなかった!!」と言えるようなことをして「新たに挑戦しよう!!」と思える状態にする!
こんなふうに目標を決め、Yes!海鮮丼ファイブは進み出した。
みんなで毎日、守さんやしげ子さん、京一さんのお家にお邪魔した。
私たちになにかできることはないか、地域の人が望んでいることは何か。
地域の人のお家訪問中。
CMSPの日常スナップ
一週間、45期で小さな一軒家に滞在した。
お風呂は近所の温泉、トイレはぼっとん、夜はみんなで雑魚寝と、わりと過酷な環境だった。
休憩中の風景。
45期女子メン。
男気じゃんけんしてます。
変顔しすぎな。
ターニングポイント。
3グループにわかれた中で、海鮮丼ファイブは大人しいグループだった。クセが強すぎない常識人(?)が揃っていた。
逆に言えば、前に前にと出るタイプがいなかった。
だから、私は無駄に気負っていた。私が頑張らねば、と。
しかしそれは、チームの仲間を信頼していないことと同義だった。
仲間を信頼しないで自分1人だけでがんばるなら、チームでいることになんの意味がある?
そのことに気づいた時、初めてみんなの前で泣いた。
残り2日。私にとってのCMSPはここがターニングポイントだった。
ついにアクションプランを実行する。
私たちは、行灯を作ることに決めた。京一さんと守さんと行灯を作り、行灯にはしげ子さんのちぎり絵を貼る。
地域の人たちは、最初は乗り気じゃなかった。
もう自分たちにはそういうことは出来ない。
他の人とやりなさい、と。
私たちは、あなたと一緒につくりたいんです、と何度も伝えた。
最後には、地域の人たちは首を縦に振ってくれた。
元大工の京一さんが行灯作りを教えてくれた。
京一さんの涙は忘れません。
しげ子さんにあげた行灯。
後日、お家に飾ってくれていました。
最後の最後にしげ子さんが、私の顔と名前を覚えてて、手を振ってくれたことが忘れられない。
目の前の1人のために。
私たちがやったことは、広田町の全員に影響を与えられるようなものではなかった。
せいぜい、2,3人の地域の人たちと行灯を作っただけだといえばそれまでだが、あの瞬間広田町に笑顔は少し増えた。
目の前の1人のために、何ができるのか。
地域おこしは、この繰り返しなんじゃないかと思う。この人に元気になってほしい、笑顔になってほしいという気持ち。
そんな、ひとりひとりの気持ちの積み重ね。
私たちが作った行灯で地域の人が笑顔になるなら、それはどんなコンテストで優勝することよりも価値があることだと思った。
2年経って。
広田町に行ってから、もう2年経つ。
3月なのに雪はなくて、海風がちょっと寒い広田町。
地域の人たちは元気だろうか。
過酷で、でも最高だった一週間が、今はちょっと懐かしい。
みんなが広田を愛していたように、私も私の地元を愛していきたいと思う。
追記
2021年2月21日の今日の注目記事に掲載されました。
ありがとうございます。