日記 0303
みんフォト経由で、こちらの記事にたどりついてくださったかたへ。
下の写真の木は、震災から数年後に陸前高田で撮影した「奇跡の一本松」です。
震災について思ったことは、以下の記事などで書いています。
https://note.com/tamochaos/n/naf710a9e908f
期待をしない、ということほど難しいものはないと思う。
大人になるまで「人はこうあるべきだ」「**ができない人は、だめな人だ」といった種々の先入観に、割とがちがちにとらわれていた。今も意図しないうちに、多かれ少なかれそういう瞬間はきっとあるのだと思う。
ここまでの過程で、親しい人や家族から厳しい、時に辛辣な助言を受けてようやく少しずつ視野が広がってやっと今がある、という感じだ。
自分や他人を本当の意味で批判的に見ることにはまだまだ努力が必要で、だから、何かを断じるのは避けたいとは思う。
自分や身近な人が争いに巻き込まれているとき、「なぜ人は争うのか」といったことに頭を使うのは徒労だと思うようになった。
仮にそれで何らかの答えを導き出せたとしても、それはただの(自分はこんなことを考えられたのだという)自己満足にしかならず、何の解決にもならない。たいがい、そういう結果としての答えは「人はこうあるべきだ(だから**がまちがっている)」という体の結論にしかならない。
べき論の痛いところは、変化を相手にしか求めないことだ。
自分が何かをしたら物事が好転するという意思がない。
正義は自分にあるという大前提から疑わなければ、結局みんなにとってのハッピーは作り出せない。
だから相手に「こうあるべき」という期待はしない方が、解決が早く進む可能性が高い。
そういう場面では時に冷徹さも求められるだろう。
また上記のようなことをあらかじめ考えられていたとしても、自分が適切に「期待をせずに」いられるかどうかは、正直自信がない。
それでも、自分もまわりも、もっと楽に生きられるようになるために。
一般常識だとか社会通念といった、上から降りてくるような決まりごとではなく、自分の頭で判断した最良の選択肢をもって日々のカイゼンを行なっていく、という普段の努力が必要なのだと思う。
それは自分に向いているときに自律として、また他人に向くときには思いやりという形であらわれるのかもしれない。
なんだかつらつらと書いてしまった。
明日からもがんばりましょう。