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「里山はこれからの未来の最前線。環境人文学から捉え直す自然と人との関わり方」2024.8.21 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その①
2024年8月21日(水)はまぐり堂にて、今年度 第3回目の持ち寄り勉強会を開催しました。今回はインドの文化や環境人文学などを研究されている千葉一先生をお招きして、今年の地域の冊子づくりのテーマ「里山」にまつわるお話を伺いました。
今回の持ち寄り会は、前半で千葉先生にお話いただき、後半はみんなで持ち寄り料理をいただきながら交流、エピソードの収集をしました。
千葉先生をお迎えして大いに盛り上がった勉強会の模様を、数回に分けて詳しくお届けしたいと思います。
千葉一先生 のお話 〜宮沢賢治の物語から紐解く「里山」というインターフェイス〜
「狼森と笊森、盗森」と「イオマンテ」
千葉先生(以下表記:千葉):
今回「里山」というテーマをいただいた時に、まず最初にこの宮沢賢治の童話「狼森と笊森、盗森」が思い浮かびました。今日僕らが持ち寄って食べている食材なども、基本的にはこういうことなんだろうなって思ってます。
食べ物は、僕らの労働があって「私が作ったんだ」っていうのも、もちろんあると思うんですけれども、その大元は、森からの贈与・プレゼントに僕らの力も加えて共同制作したものであり、それを共同で食べる、ということなんですよね。
なので、共同制作した大切なものは大切な人々とみんなで共有して食べないといけない。だからこの(持ち寄り勉強会の)共食の場はすごく大切だと思うんです。
参加者の皆さん(以下:参):おお〜、素晴らしいね!
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千葉:でも今の資本主義って、共同して作ったのに資本の所有者にいろいろな権利があるんですよね。
市場という場所も同じで、100円のものに100円払った人だけが所有権を持って、99円の人は排除される。それもよく考えたらおかしいなって思いますし、特に大切な水や基本的な食料から排除されてはいけないと思うんですけれど…。
そんなことも含めながら…まずはこの童話のあらすじをご紹介しながらお話したいと思います。
この物語の中で、農民たちは村を開くときに、森からの許諾を得るわけです。これって里山の始まりだと僕は思っていて。
つまり、「里山」っていうのは何かっていうと、森とか自然と人間の「インターフェイス(接点・境目・隙間)」なんです。
それで、インターフェイスにはインターフェイスの接続の仕方、つながり方の作法とか礼儀(プロトコル)というのがあるはずなんですね。
これを現代の私たちは、「森をチェンソーでバンバン伐っていって何が悪いんだ」とか言うわけですけれども、でもそこにはやっぱり(自然という)相手があってのマナーがあると。それを賢治は作中で言っているわけです。
だからこの農民たちの暮らしは、「俺の実力で俺の労働で採って使って何が悪いんだ」っていう社会ではないんですね。
今は実力主義だとか自己責任論とかって言いますけど、基本的には(自分勝手な行為を除けば)自己責任なんてなくて、被害者にお金を払いたくなくて「自己責任だ」って言っているようなもので、「自己責任」という主張がコストカットの方便にされています。
たとえば、危険なところに押しやられてそこに住まざるを得ない人に対して、洪水が来たときに「お前の自己責任だ」って言うのはおかしな話で、本当はそこに追いやってしまった権力とか社会構造、差別的な伝統、法律などがあるわけで。
それを「自己責任だ」って言ってしまうのはやっぱり問題で、そういうことを皆でフォローし合うような、皆で共有しながら皆で解決していくっていう、そういうスタンスが必要なんだと思うんです。
皆で対立しながらも、どうやって折り合いをつけていくかっていうのを探っていく…それが「共生」ということだと思うんですよね。
これはただ単に「仲良くしようね」っていうことじゃなくて、あるいはお互いに意見が違うから「あなたはあなた、私は私」っていう風に「お互い関係なしにしましょう」って言って問題が解決するわけでもなくて。
「それぞれ意見は違うっていうのは認めながらも話し合いを諦めない」っていうスタンスが一番大切なんだと思うんですね。
それを「相対主義」って言うんですけれども、みんなこの相対主義のとらえ方を間違っていて、考え方や文化が違うからしょうがないから「あなたはあなた、私は私」「それぞれ別の道を行きます」というのが相対主義だと思っている場合があると思うんですね。
でもそうではなくて、やっぱりこの共同体というか、皆が関連し合いながらこの世界を共同制作している限りにおいて、「それぞれ別々でもいいんだ」という部分は大切にしながらも、共に問題解決に取り組むような方向へ、今日明日の問題解決じゃなくてもずーっと話し合いを続けましょうね、というスタンス(文化相対主義)が大切なんだと思います。
そういう意味で、文化相対主義は「対話をするための枠組み」としてとても重要性ですし、対話という普遍性を持っているとも言えます。
でも文化相対主義にも問題がないわけではなくて、例えば、「同じ人間同士」という枠組みに限っているんです。
そうではなくて、森とか自然と人間との間でも、それから多種類の動物や、山や川などとも対話を諦めない、というのが大切なんだと。
賢治はいろんな作品の中で、そのことをずっと言っているんですね。
それで、この「狼森…」のお話の中では、農民たちが森に「ここに田んぼを作ってもええか」「家を作ってもええか」「火を焚いてもええか」「木を切ってもええか」と聞きます。そのたびに森は「ええぞ」と答えます。
そしてある日、村から小さな子どもたちがいなくなってしまいます。その4人の子どもたちは、森の中で9匹の狼たちと火を囲んでいた…。
ここの箇所は皆さん、どう思います?何が起こったと思いますか?
つまりこれはですね、狼とか熊っていうのは、やっぱり一面では人に被害を及ぼしたり、家畜に被害を及ぼしたりする脅威なんですよ。
村人たちにとっては、子どもがいなくなってさらわれたっていう脅威、だから狼たちは様々な自然の脅威を表現しているんです。
人は森からいろんなものをもらうんだけども、実は森という存在は、私たちにとって脅威でもある。
そのことを物語っているんですが、でも脅威っていうのは、ただ単なる脅威じゃなくて、やっぱり何らかの理由があるわけです。
ここで面白いのは、たとえば「イオマンテ」というアイヌ民族の熊送りの儀礼があるんですが、これは熊を供儀するんですけれども、これは「熊神様が山からやって来てアイヌの人たちのコタン(村)を訪れてくれて、毛皮や肉や"熊の胆"( 熊の胆嚢から作る生薬)をもたらしてくれた」と解されるんです。
そして骨や毛皮とか古い姿を脱ぎ、魂そのものになって森へ帰っていった熊は新たに再生します。
そして熊神自身も、また村の人々の安寧を確認するために村を訪れることを楽しみにしている…っていう、そういう熊との循環する相互的なストーリーがあって。
そこでの熊っていうのは単なる自分たちの食糧でもなければ、単なる道具でもないわけです。
そういうこととちょっと似た話があって、今まで私たちは、人間だけが文化を持っていて、熊とか狼とか、たとえばタコとかも、彼らは文化を持っていない、と当たり前のように考えていたんですけど、最近の人類学はちょっと違っていて、人間だけを特別視するのはやめたほうがいいんじゃないか、という意見もだいぶ認められるようになってきています。
実は文化っていうのは、タコもミミズもスズメも熊もみんな持っている。
そして私たちは、実は他の生き物たちと同質の魂でつながっていて、その文化を根底で理解できる部分もあるんじゃないか、と。
賢治の作品には、それが色濃く描かれているんですね。
参:昔書かれた話なのにすごいね。賢治は昔の人でしょう?
千葉:そうなんです。今、人類学者で賢治を研究している人も何人かいるんですが、賢治はエスキモーのような北方狩猟民の文化伝統っていうのはあんまり知らなかったと思うんですけど、不思議なことに彼の作品の中にはエスキモーの人たちと同じような発想があるんですよ。
参:へえ〜!
千葉:それで結局、この童話の中で狼たちが子どもたちと火を囲んでいたっていうのは、これから子どもたちの「イオマンテ」をしようとしていた、っていう雰囲気なわけです。
もちろん食べようとしていたのだとは思いますが、その際の魂送りをしようと…。
それと似たようなことは、賢治の「なめとこ山の熊」という作品に出てくる主人公・淵沢小十郎の最期のシーンにも出てきます。熊たちが、死んだ小十郎のまわりを囲んで魂送りの儀式をしている、っていう場面です。
つまり、自然や森と共に暮らす伝承的な人間だけが魂送りをするんじゃなくて、実は狼もこれから子どもたちの魂送りをしようとしているんだということです。
一方的な命の奪い合いではない、生存競争しているようでありながら、同時に相手の再生の何かを担っているような…。
で、そこに村人たちがやって来て「狼様、どうか子どもたちを助けてけろ」と言うわけですね。「どうか子どもを返してけろ」と懇願する。
そしたら狼たちは走り去って森の奥に引き下がっていくわけですね。そして、姿が見えなくなった後に「悪く思わんでけろ、子どもたちに栗やキノコをうんと食わせたど」と狼が叫ぶんです(笑)。
これってイオマンテの時に熊にいろんなものを捧げて供犠するっていうのとほとんど似ていて。
要するに、自然っていうのは敵でも味方でもなくて、私たちにとって良いとか悪いとかじゃなくて、コインの表と裏であり、恵みであり災禍でもあるわけで、それは人間側の都合次第なんです。
それを私たちは片方だけ取るわけにはいかなくて、恵みは恵みとして受け取り、信仰のような気持ちを持ちつつ、でも災厄とか災いも実は避けられないわけですが、それをできるだけ低めるようなかたちで彼らをなだめ、「経済発展のため」とかいうような人間側の都合を一方的に(専制的に)押し付けるのではなく、労り、そして友だちになる…っていう風なやりとりをするわけです。
そして人間にも人間の都合があるように、やっぱり他の諸生物にも向こうには向こうの仕事なり都合があるわけですよ。僕らは、自分たちの都合だけでいろんなものを変えたり壊したりしてるんですけど、本来そうじゃないなって思うんですね。
関係性を育む「贈与」と「返礼」
千葉:そして農民たちは、子どもたちを返してもらったお礼に、穀霊宿る粟餅を森へ捧げます。
(物語の舞台である)岩手県は、今でも雑穀栽培が日本一なんですね。今でも雑穀畑がいっぱいあります。穀霊っていうのは、粟とか、黍とか雑穀に宿る魂、スピリットのことです。
たとえばお正月には、私たちは「米に魂が宿る」って言って、それを「稲霊」と言ったりして、その魂が宿っているおこわや餅を一年の初めに食べることで、一年を息災に生きるための歳魂をもらいます。
そして、365日生きて、それが切れるあたりに歳神様がまた新しい歳魂を持ってきてくれる。元々のお年玉はお金じゃなくて、餅とか主食作(穀)物に宿る穀霊(作神)なんですね。
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そういうのと一緒で、いわゆる山からの恵み、森からの恵みをもらうとき、その恵みには何らかの魂が宿っている。その魂が宿ったものを食べて、私たちの魂が形成される。
そしたらその魂は、やっぱりいつかは森へ帰っていかなくちゃいけないわけです。森のものは森に返す、海のものは海に返す、みんな元の場所(母地)に帰りたいわけです。
でも、そんな魂の苦悩や感傷など一切関係なく、ずーっと持ち続けたいわけですよね、僕ら人間は(笑)。資本主義的蓄積衝動っていうか…。
参:欲張りね〜(笑)。
千葉:はい、欲張りなんですよ。本当に情けない。溜め込んで溜め込んで…。
大手企業なんて、500兆円ですか?内部留保を溜め込んでいるわけなんですけども。
本来は、溜め込むんじゃなくて、受け取ったものは必ず返さなくちゃいけないんです。その企業を取り囲む生存の場でもある社会や自然の再生のために…。
今日の持ち寄り会みたいに、僕もたくさんご馳走になったら、たくさんお話をすることでお返ししたいと思っているんですけれども(笑)。
つまり僕らはやっぱり、誰かと良好な関係を結びたかったら、いただいた分(誰かが自己の何かを切り取って贈ったものへ)のお返し(相手の欠損を補い再生するもの)が大切なんですよね。
贈与っていうのは、実はちょっと難しい面もありますが…。たとえば、相手が返せないぐらいの贈与をしてしまうと、「相手を馬鹿にした」ことにもなるんです。そういう贈与のパラドックスがあるんですね。
たとえばタイ王室の例ですけど、家来が王様から白い象をもらったとすると、「お前の顔はもう見たくない」っていう意味になるんです。白い象に値する返礼品がないからです。
だから、あまり巨大な贈与をしすぎると「お前との関係を切る」っていうことになってしまいます。
でも基本的には、相手と良好な関係を結ぼうとしたら、私たちは贈与しなくちゃいけないんです。困っている・困っていないではなくて、「この人と良好な関係を結びたい」と思ったら贈与し、受け取ったら返礼の義務が生じるわけです。
「贈与原理」っていうんですが、これは3つのことから成り立っています。
贈与する義務、受け取る義務、そして受け取った限りにおいては返礼する義務…いつも皆さんが普通にやっていることですよね。
でもそれって、人間同士だけじゃなくて、人間以外の多種多様な存在とも大切にすべき原理ですよね。
でも僕らは資本主義社会の中で、「最小の犠牲で最大の利益」っていう「利潤原理」のことで頭がいっぱいで、「受け取るばかりで返さない」っていう方向に走ってしまいがちです。でもそれってフリーライダー(ただ乗り)、非道ですよね。
でも、そういうことをずっとやっていると、こちら側に魂が蓄積するんですけど、魂は元の場所に戻りたいっていう習性を持っているらしい…だから溜め込みすぎ(束縛され)ると、その人にとって危険をもたらす、っていうのが世界の伝承文化の共通した発想なんですね。
特に南太平洋では「ハウ」とか「マナ」っていうんですけど、日本では「タマ」とか「モノ」って言います。
やっぱり南太平洋の文化流も僕らは吸収していて。先ほどの熊送りに関しては北方アジアの文化流になるんですけれども…。
日本人の思考とか日本語の曖昧性とも関係していると思うんですが、そうした「答えを一つに決めつけない」多様な文化流を体現しいる私たちって、実はグローバリズムのフロント・ランナーの素質があるように思えるんですが…本人たちはあんまり気づいていないかも…。
「狼森…」の童話に話を戻すと、僕らは、森からだいぶいろんな贈与を受けたその魂をずっとここに置いておくんじゃなくて、何らかの形で森に返さなくちゃいけない。
ということで、農民たちは子供たちを返してくれたお礼として粟餅(穀霊)を森へ贈ります。これってまさに魂送りなんですね。
先のイオマンテの話で、熊が山の神の力を持ってやって来て、その熊自体の魂をまた山へ返してやるっていう魂送りとまったく同じ構図なんです。
そしてこの話の中では同じようなストーリーが繰り返されて、笊森では、森が農民の大切な農具をかっぱらって隠してしまう、そしてまた農民たちが「返してください」って言って、返してもらったお礼に粟餅を贈る(捧げる)。
つまり森は、里山のような人間社会と自然との境界域に、いろんなものを与えてくれる。それが魂のやり取りや贈与などの循環として表現されています。
これを生態学では「生態系サービス」と言います。僕らはこの生態系サービスがないと暮らしていけないんですね。
誰が水を浄化してくれるのか、空気を浄化してくれるのか。木材、それから植物から採れる薬だとか、私たちの食べ物だとか、もう多種多様なものを与えてもらっているわけですよね。
もし森がなかったら…岩とか土がむき出しのところだったら、保水力がないと、僕らの住む場所は流されてしまったりするわけです。森はそういった防災機能も持っている。
そういったものをトータルに総称して「生態系サービス」っていうわけですね。
この物語の中では、森の力(生態系サービス)は人間に恵みを与える、そして人間はもらったままじゃなくて返すっていうことが描かれているんです。
親しい人の間では「これ少しだけど食ってけらいん(食べてね)」って言って、「あら、なんとあんだもかでこだ(あらなんでしょう、あなたも義理堅いね)」って言って(笑)、親しい関係になればなるほど、やったりとったりするんです。
このお話の農民たちと森も、そういう関係になっていったわけです。
その次の盗人森は、畑でできた粟を全部隠してしまって、それをまた農民たちが「返して」と言う。そして農民たちは返礼として粟餅を森へ送ります。
それから森と農民たちは友だちとなり、森たちは冬の初めに粟餅を受け取るようになりました…というような、素晴らしいストーリーなんですね。
(次回へつづきます)
《ここ掘れワッショイ!》 執筆:亀山理子 / イラスト:佐藤優花
「足元に眠る宝もの(みんなが当たり前に持っていた地域の暮らしの知恵や食文化、自然と共生する在り方など)」を掘り起こし、その豊かさを改めて見つめ直し、次世代へと繋いでいきたい。
そんな思いのもと、地域の方々と一緒に開催している「持ち寄り勉強会」の模様をお届けする連載マガジンです。
記事一覧:
【1】「地域のみんなの顔が見える冊子っていいね!」 2024.6.27 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その①
【2】「地域のみんなの顔が見える冊子っていいね!」 2024.6.27 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その②
【3】「豊かな海は、豊かな森から生まれる」2024.7.24 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その①
【4】「豊かな海は、豊かな森から生まれる」2024.7.24 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その②
【5】「豊かな海は、豊かな森から生まれる」2024.7.24 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その③
【6】「里山はこれからの未来の最前線。環境人文学から捉え直す自然と人との関わり方」2024.8.21 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その①