「里山はこれからの未来の最前線。環境人文学から捉え直す自然と人との関わり方」2024.8.21 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その②
千葉一先生 のお話 〜宮沢賢治の物語から紐解く「里山」というインターフェイス〜
「人間中心主義」から「マルチスピーシーズ(多種類人類学)」へ
これは今、僕らの業界では「マルチスピーシーズ」「多種類人類学」と呼ばれるジャンルに入ります。
つまり僕らだけの人間中心主義や人間例外主義(編者注:人間は他の自然界とは 区別される存在だとする考え方)ではなくて、実は僕らはいろんなものと平等に、いろんなものと絡まり合いながら、この社会なり自然なりを形成している、っていう考え方です。
まさに里山っていうのは人間社会と森とのインターフェイス(接点)の最前線であり、そこには賢治の作品に描かれているようなマナーがありました。
しかし私たちは最近このマナーを捨てていて、インターフェイスをインターフェイスとしなくなってきた、というところに大きな問題があるわけです。
賢治の作品や伝承文化の発想の中では、僕ら人間と多種類動物との間には、実は境界線はないんだ、っていうのが基本的な考え方ですよね。
境界線がなくて、やっぱり彼ら動物たちも風邪を引くし、僕らも風邪を引くし…嬉しいこともあれば、悲しいこともある。
そして何よりも、種を越えてお互いがお互いを支え合っています。
それにも関わらず、昨今では人間だけが特別だって考えて、人間だけが収奪していいんだっていう考え方になっているんですけれど、そうじゃないんだという発想でものごとを考えていきましょう、という方向になってきているんですね。
つまり自然の脅威を、科学や文明の利器で単に封じ込めるのではなくて、森や自然との関わり、コミュニケーションから考えていく、「自然や多種との対話を諦めない」という方向です。
要は、僕らは自分の力だけで生きているのではない。
自律だけでもなく他律…「他者の力(多種との絡み合い)があって、自分が在る(機械的に従属しているのではなく生かされてもいる)」という、これはかなり仏教的な話でもあって、「あなたがいるから僕がいる」っていう縁起の世界のことを言っているとも思います。
独立的に一つで存在しているっていうのは仏教ではあまり言われなくて、なんで私がいるかっていうと、私に繋がる因果関係の中で私は存在している。
これは生態系もそうなんだと思うんですね。
たとえば、ここにこれこれこういう種類の動植物たちがいて、そこに何らかのポケット的な空白の役割があって、そこに入ることによって(種が持つそれぞれの能力、行動や努力や話し合いによって)、自分の役割が縁起的に決まっていく。
そういう風にして生態系の網の目が作られていく、っていう発想とよく似ているんです。
で、僕らはとかく「自主自立」って言いますけど…。小学校の時から「自主自立」って言って、(通信簿の)「自主性」っていうところに「3」とか「4」とか評価がつけられたりしますけど、でも現実には、自主自立していたら、もはや神様なんですよ。
僕らは皆にいっぱい迷惑かけながら皆に助けられながら、けっこう他主他立的に生きている部分ってあると思うんです。
参:そのとおりだねぇ(笑)。
千葉:宮沢賢治はかなり仏教にも詳しいので、そういったところも影響しているかもしれませんよね。
最近では仏教哲学とかインド哲学と、この多種類人類学の発想が絡み合うような研究もけっこう進んできているらしいんですが、宮沢賢治はそれよりもっとずっと前にこれを書いていたわけです。
多種類人類学(Multispecies Anthropology)が言われ出して、まだ20年も経っていないと思いますから。
とにかく、自立(律)だけではなくて、他主他立(律)、そしてその絡み合いの中でものごとが進んでいるっていう方が現実的かもしれないですよね。
僕らは「これをやろう」と思ってやったけど結果は別のことになってしまった、っていうことってけっこうありますよね。「そんなつもりじゃなかった」ってよく言いますよね。
それはもう自主の問題じゃなくて、相手がある問題なんです。
賢治は「狼森…」の話の中で、自然とその脅威を擬人化して、森・自然や多種との倫理的関係と共生を訴えている。
そしてそこには、森と人とのインターフェイスでの行動準則があるわけです。行動準則っていうのは、そこでの約束事のことです。
異なる文化と異なる文化が接するときの、外交的な・儀礼的な手続き、ある種のマナーとも言えますが、僕らは、実はそういうマナーがなくちゃいけないのに、そういったマナーを、資本主義とか市場システムの中で、近視眼的な「利潤」や「価格シグナル」に従属し切ってかなりいいかげんにしてしまいました。
都市のニーズで里山や里海などのインターフェイスを改変しつつ、自然や世界を一方的に専制主義的に変えてきた結果、今のような、たとえば熊や猿、鹿、猪にしても、彼らがやってくるとあたふたしてしまう、ということになるわけです。
彼らは、人間に何かを伝えに来訪した尊い森のメッセンジャーに他なりません。
そこで僕ら人間がいつも言うことは「市民と害獣」とか「人間と動物」とか…でも、僕らが彼らのことを勝手に「害獣」と決めているだけであって、彼らには彼らの都合があって、彼らには彼らの追い詰められた状況、やむにやまれぬ状況があるわけです。
もしかしたら彼らは、「あなたたちに渡した何らかの森の魂を受け取りに来ましたよ」って、山から降りて来ている可能性だってあるわけです。そして、それを受け取ってまた森に帰る。
賢治的には、そういう風なストーリーとしても見ることができます。
だから、今言ったのはかなり擬人的ですけれども、彼らは何らかの森の異変とか里山の異変とか、人間と人間以外の存在との関係が変わったことで直面している問題とか環境変化のことについて、こうした形で僕らにそれを提示しているっていうことも考えられますよね。
つまり、彼らは僕らに何かを伝えようとしているメッセンジャーとして来ている、っていうことは、おそらく当たらずとも遠からず、と言えると思います。
それを私たちは、迷惑がっているだけで、猟銃を持っている猟友会の人たちに駆除を頼めば済む問題なのか、ということです。
彼らがなんで山から降りてくることになったのか…彼らが出没した意味とか、そういったものをちゃんと理解しようとする努力っていうのを僕ら人間がしているかっていうと、一部の人たちはしているかもしれないけれど、かなり本気になってやっている人は少ないわけです。
実際に、「アーバン・ベア」って言って、よく都市に出没してゴミをあさっている熊は…普通の熊より5キロくらい太っているらしいんですけれど…彼らはもしかすると、森での生活じゃなくて都市での生活に種分化している過程であって、もしかすると、もう熊っていうのは森に住むだけじゃなくて、都市に住む熊っていうのを、これから何十年か先に私たちは受け入れなくちゃいけなくなっているかもしれない。
そういった都市のあり方…例えば「アーバン・フォレスト」(編者注:森林による、冷却・省エネ・大気浄化・雨水流出量抑制・野生生物の生息空間などの生態系サービスを提供する、都市および都市近郊の包括的な樹林の概念。参照:https://www.gaishin.com/urbanforest/)のような新しいあり方に、あとここ何十年かで実際になるかもしれない。
熊などの野生動物の出没には、そうしたフロント・ランナーとしての意味、「人間自体がその生態軌道を変更せよ」との異議申し立ての意味があるのかも知れません。
実はその先例として、熊は私たちの社会に「俺たちも仲間に入れろよ」って来ているのかもしれないし、そのこと自体が、今まで僕らは多種類コミュニティの中で「人間だけは特別」って言って他は排除していたけれど、これからは多種類コミュニティの中に人間の方がインサイダー化(内部化)していくっていうことなのかもしれない。
そんなことを考えると、この里山っていうインターフェイスはものすごく重要なんです。
ただ単に人間の都合で、都市の都合で、市場の都合で、「里山にはこんなものを作ればいい」とか「もっとビニールハウスの規模を巨大にして、窒素肥料をもっといっぱい使って、山の方でもっとこんな作物をいっぱい作ればいい」っていうふうに、市場に従ったかたちで里山が形づくられて機能するっていうことが、果たして本当にいいことなのか?ということはよく考えなくちゃいけない。
里山には里山のインターフェイスとしての機能やマナーがあると思うんです。
この「狼森…」の物語は、自然からの恵みだけでなく脅威をも受け止め、「非人間」、もっと言えば「more than human 」(編者注:動植物だけでなくモノや鉱物、神々、目に見えない存在などを含む多種多様な諸存在) との語らいや相互理解をあきらめない、森とのコミュニケーションの回復と和解の物語だ、という風に僕は思っています。
でもこれってなかなか難しいんですよね。対話をあきらめないっていうのはね。
僕もいろんな人たちと会議を持ったりなんかして、やっぱり多くの人の目の前で面罵されたりなんかすると、「あいつともうしゃべりたくない」ってなるんだよね(笑)。
それでも、嫌でもやっぱりもう一回ちょっと電話かけてなんとかしなくちゃいけない。向こうも嫌なんだよね、俺から来られるのは(笑)。
なかなかこれは度胸がいるんですよね。けっこう心が折れる時もあるんです。
一同:そうだよねぇ。(頷く)
(次回へつづきます)