国立大学授業料の値上げ問題


日本衰退の元凶となったのが、教育の荒廃である。その根本部分は、愚かな大人たちが行ってきた「国立大学改革」という名の、知性や思想の破壊だった。


日本の没落は不可避であったと言えよう。最も大事な部分を破壊させ、一方で上辺だけの「肩書大学教授」のような愚劣教官どもを粗製乱造し、「大学」という市場で見れば「大量の粗悪品」で溢れかえらせたようなものだ。優秀な人材が駆逐され、国費を貪る愚劣なポンコツがのさばるようになったのだ。
(例えば、国立最高学府と呼ばれたT大の「先端何某」的な胡散臭い連中に教授だか准教授だか特任教授だかフェローだか知らんが、ポジションとカネが大量に貼り付けられてるのが、その良い例だろう)


日本の失敗は、社会的エリート層が洗脳に弱く、自己利益の為なら国民国家を売り渡してもよしとするような連中ばかりを増殖させたことだ。バカと強欲が徒党を組んで「同類の再生産」をしているのだから。


愚痴ばかり書いてしまって、ごめんなさい。
そろそろ本題に入ろう。


今、東大授業料の値上げ問題で学生の反対運動が行われている。


過去の国立大学の苦難の歴史は、90年代の「大学院重点化」や「国立大学法人化」、運営交付金の削減・ポジション削減(の裏で、バカな破壊者は増やした)などが実行されてきた。
若年人口の減少もあるし、地方衰退の加速、東京一極集中など、国公立大学の苦境はほぼ挽回不可能な状況だろう。地方で研究や人材育成をしようと思っても、本もノートも鉛筆すらも買えない程に困窮(=慢性的な予算不足)では、手のうちようがない。

その一方で、粗製乱造の私学が文教予算を食い潰す。何ら成果を上げず、社会貢献の乏しい大学であろうと、「名ばかり大学」の経営陣や無能教官にカネは入ってくる。


まさに日本民族を衰退させるべく、日本の強みを集中的に攻撃し、愚か者が勝利してのである。



今は、当然の帰結として「こうなっている」ということだ。残念だが、この現実を認めるしかない。我々には、覆せる手段はもう残っていない。それが証拠に、今の国会議員どもの面を見てみよ。この意味がよく分かるだろう。


すまん、話を戻そう。

オイルショック直前の1971(昭和46)年、国立大の授業料は年12000円だった。それが、狂乱物価の時期を経て値上げ已む無しは分かるが、1972年に3倍の36000円、76年には96000円と大幅な引き上げが強行されたのである。



当時の予算編成は大蔵省で、恐らくシーリング段階で文部省に打ち克ち、大幅値上げを実現させたものであろう(官僚は―殊に大蔵官僚の主計局は―前例踏襲を言いがちではなかったか)。

76年の大幅値上げ以降、入学金の2万円引き上げ、翌年は授業料値上げ、ということで、毎年入学金か授業料の値上げが実施されるようになった。なので、授業料値上がりは2年おきとなっていた。

この財務省の既得権益が止まったのは、国家公務員改革の声とか財務省批判が強まっていた08年以降である(デフレ期間だったことやリーマンショック後で値上げが見送りとなったことも影響したか)。


以下は、当方独自の「国立大学授業料値上げ」問題の解釈である。


1)当初は経営危機の私立大学の授業料値上げ問題から始まった

60年安保闘争後、社会全体の「大学生への風当たり」というのは少し変わっていったのかもしれない。それとも、私学教職員の「給与引き上げ」闘争でストライキが激化していったこともあったかもしれない(国立大は公務員だったのでスト禁止だったが、私学は自由にストライキ闘争を仕掛けていた)。

この流れで社会的に耳目を集めた事件が、1965年の慶応大学の「授業料値上げ問題」だった。経営側に対し、教員団が「給与引き上げ」を強く迫ると、その財源が必要となったわけである。
その為、経営側が「授業料の値上げ」と「塾債の発行」(法人の債券発行で今で言う社債に似たものか?)を公表した所、慶応大の学生が反対運動を展開し長期の学生によるスト開始で、社会問題化した。


これが繰り返し起こるようになると、反労組や反共を掲げる従米派官僚や自民党にとっては不都合だった。早稲田や明治大などでも同様の「授業料値上げを公表」からの、スト闘争ということがよく起こり、対策が求められた。

そこに加え70年安保闘争も起こってきて、学生のスト闘争などが目立つと大学側としても問題に対処せざるを得なくなっていった。
それが、文教族への「泣きつき」であった。

すなわち、「私学は政府の助成金がなく苦しい経営で、物価騰貴による授業料引き上げは不可避なのに、国立大学は殿様商売で安い授業料で惰眠を貪っておりズルい、奴らも値上げしろ」ということである。


この話に飛びついたのが、自民党の文教族議員たちと大蔵省だった。国立大学の教養人たちは、概ね「米国や官僚の言う事」なんぞに簡単に首を縦には振らず、正論を吐いてくるから「目の上のタンコブ」の忌々しい存在であったことだろう(今の審議会の連中みたいに事務局の振り付け通りに踊るアホ学者は、必ずしも多くはなかったろう)。

この私学と国立大学の格差問題というのは、国会でも度々取り上げられるようになっていった。


昭和42(1967)年4月24日 衆院予算委第二分科会


(以下、一部引用)

『佐藤觀次郎

文部大臣に私学振興のことで少しお尋ねしたいのですが、実はだいぶ剱木さん専門家ですからいろいろお骨折りいただいておることもわかりますけれども、どうもいま問題になっておるのは、私学の経営が非常に困難である、この数年来慶応、早稲田、明治というような学校の月謝値上げ問題から大きな社会問題になり、学生が騒動を起こしておるという原因がすべてこの月謝の値上げからきておるということも、御存じだと思うのであります。そこで、いま問題になっておるのは、私学の経営状態を根本的に改善せよという意見の中で、経常費を何とか国の保護にしろ、またそれが法的に何か不都合なことがあるのじゃないかという意見があったり何かしておりますが、この私学というものもやはり公の支配に属しておるので、憲法の精神からいっても、これは日本の教育の考え方からすれば、当然私学にも助成をすべきではないかと思うのです。そこで私立学校法第五十九条によって各種の助成保護を行なうのが当然であって、むしろ経常費を助成して悪いということはどこにもないのです。これは法律論の中で、私学経営の経常費を補助するということは何か私学の根本精神をくずすというような意見もあるのですが、剱木さんは文部省に長くいられた方でもあるし、この意見について政治上いろいろ意見もあると思うのですが、この点をどのようにお考えになっておるか、ちょっとお伺いしたいと思います。』



昭和42年6月の参院文教委で、私学助成の為、(自民党内の?)文教(私学)制度調査会で答申を出す準備等も行われていたことが議論されており、電波大学の値上げ問題が国会でも取り上げられた争議だったことが分かる。


昭和45(1970)年9月22日 参院文教委


『多田省吾

 次に、国立大学の授業料値上げについて御質問いたします。何ですか、自民党の中で文教部会だと思いますけれども、三倍から五倍くらいこの際国立大学授業料の値上げをしたいとか、大蔵省も二倍から三倍くらい値上げしたほうがいいのじゃないかといわれている。それに対して坂田文部大臣は十八日に大阪大学の総長室におきまして、まあいずれ値上げしなければならないけれども、いまのところ具体的な値上げは考えていない、党内の意見も年末までまとまらないだろうとおっしゃったと新聞に書いてあるわけです。私は国立大学の授業料値上げに対しましては最近の物価問題もあり、しかもこれが私立大学に大きく波及することも考えられますし、さらに新たな大学紛争の発火点にもなりかねない、こういった理由からこれは絶対にやるべきではない。こう考えます。』

これに対する、坂田文部大臣の答弁の一部

『国立大学の授業料というものが、片方はまあ最低八万数千円であり、片方は一万二千円であるというこの格差だけでこの問題を解決すべきものではない、やはりもう少しその辺はいろいろのこれからの私学に対する援助なり、あるいはまた国立大学の抜本的改正なり、そういう時期にはやはりこの格差というものはある程度是正しなければならぬということは当然出てくるので、ただそのいつの時期にするかというようなことはもう少し私としては考えさせていただきたい。』


私学助成の立法措置が取られた後であっても、大学紛争の火種として授業料値上げ問題が残り続けていた様子が分かる。

多田省吾

『特に私立大学の授業料の値上げの動きが、紛争の起こっております国立音楽大、早稲田、慶応、こういった多くの大学ですでに動きがあるわけです。ききに私学の人件費助成の際に、四十六年度以降にはこういった値上げは避けられるはずであると、たしか文部大臣はおっしゃったのですね。ところが、そういう問題が事実起こっております。』

自民党内の族議員の牙城が「部会」で、当時の文教部会と大蔵官僚は既に「握って」いたことが分かる。この4年後、文教族と大蔵官僚悲願の「大幅値上げ、3倍増」が実現されることとなる。


恐らく大蔵官僚の天下り先の確保先とか、何らかの「うま味」があったであろうことが予想されよう。国立大学に予算を付けても何らの見返りも発生しないが、私学助成は財団設立から始まって「配分権限」が大蔵に握れるなら教授ポストなども得やすい、とか事情があるやもしれぬ。

12000円から36000円に値上げする昭和47(1972)年度の予算審議以前から、大蔵大臣が国立大学授業料の値上げを宣告していたらしく、マスコミはそれを新聞に書き立てていたようだ。

当時の文部大臣は煮え切らぬ答弁に終始しており、「逃げ」ではぐらかしてはいたが、大蔵と党内族議員らの合意済で文部省には覆せる状況にはなかったろう。


昭和46年12月3日 衆院文教委


高見文部大臣

『人件費の増高というような問題もありまして、私立学校はいまや経営の危機に瀕しておるという事実を否定するわけにはいかないと思うのであります。国立大学の授業料との間の格差という問題は、これは国立が安過ぎるじゃないか、私立が高過ぎるじゃないかという比較の問題ではないと私は思うのであります。本来、国立大学の経営というものは、国の費用でまかなうというたてまえで出発をいたしておるのであります。けれども、現状から申しますというと、私立大学のほうでは、このままではもう破産する。と申しますのは、調べてみますと、昭和四十一年を最後に、学生紛争の関係もございましたが、どこも値上げをしておらないのであります。

(中略)


実は、国公私立大学に在学いたしております学生の家庭の経済状態を調べてみますと、国立のほうは所得の低い層のほうの父兄に多いのであります。これは多田先生のいまの御指摘の中で、国立のほうへ金持ちの子供が行っておるという例よりは、やはり国立のほうへ金持ちでない、勤労階級層の子供さんが比較的多く行っておる、所得平均を見ますとそういうことになっております。  それはともかくといたしまして、教育の機会均等という立場から申しまするというと、私は、私立がほとんど十倍になっておる。これは、昭和十年の統計を見てみますと、国立も私立もともに百二十円であったのです。これは月でございますが、一カ月百二十円。私立の大学の中には月謝百円という学校もあったのであります。急に月謝が上がりましたのは昭和二十四年以後のことでありました。ことに私立大学がたいへんな経営上の困難を来たしましたのは昭和四十年以後なんであります。』

私学の経営問題があるから、国立は値上げしろ、と。早い話が、そういうことが発端だったわけですよ。地方国公立大学が増えてきたこともあり、私学の入学者数が一時期減少した。私学は「滑り止め」と呼ばれ、国公立大の方が優先されるようになっていた。それで経営が苦しいというのが理由だった。


その後の大学改革でも、「国立の競合する学部の入学定員が多すぎるから、私立に入学しないんだ、教育は私立でもできるから、国立の定員を削減しろ、民間の我々が多くの学生を入学させるから経営安定化する」と主張して、地方の国公立大は学生数を削られた。

これまでの無駄で無意味な多くの大学改悪の元凶は、私学の「クソみたいな主張のせい」であり、「金儲け主義者が多数蔓延る私学を救済する」為に実行されてきたのだよ。


結果的に研究能力は衰退し、亡国の道をひたすら突き進んでいる。無能の再生産体制を、くだらない私学が多く蔓延る為に構築させたから、だよ。


大幅値上げ実施直前の国会審議の例がこちら。
昭和50(1975)年6月26日 衆院文教委

文教族のドン、森喜朗が当時から大活躍だ(笑)。


「私立幼稚園の月謝よりも安い国立大学の授業料」とか責められて、そういう話じゃないだろ、とは思うが、当時の大蔵官僚にとっては何としても値上げが必達だったのだろう。


こうして、日本衰退の伏線が張り巡らされていったのさ。

無駄でバカな大学教官が続々と誕生し、アホが勝利する社会を生み出して行った。
日本の知性は絶滅危惧種となり、無能な坊ちゃん嬢ちゃんが特権利用で生き易い階層化が進んだわけだよね。
東大エリートが希求してきた、素晴らしい日本社会が登場した。


その東大生は、今じゃ霞が関なんぞには行かなくなり、ある種の負け組の墓場となったわけでしょう?

大蔵官僚たちが招いたようなものだ。
この国の中枢が、本物のバカによって支配されるようになったのだから。


教育や研究は、気の遠くなるような植林みたいなもので、結果が分かるまでには何十年かかかることはよくある。

我々が今見てる木々(大学やそこで教育を受けた人材)は、何十年前に植え育てられてきたものだ、ということです。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?