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好き嫌いの正義。

僕は好き嫌いが多いです。特に食。
これは色々理由があるのですが、別に僕個人のことはどうでも良いかと思うので割愛します。いずれ会社のブログにでも書く気が起きれば書こうかと思います。

この好き嫌いが多いことを表明することで、食事の場面では周囲の方々に気遣いをさせてしまっている事実があり、ありがたくも僕なんかをお食事に誘ってくださる面々に「これ食べられる?」などとお手間を取らせてしまうのは大変に心苦しく思うのです。が、食事のお誘いを頂戴し、僕が参加表明をする場合は概ね、食べ物に興味があるというより皆様との楽しい会話がメインの食事(あとお酒)なので、食べ物も美味しく楽しんで欲しいというホスト側の心遣いも大変嬉しいのですが、僕なんかのごく狭いストライクゾーンを狙っていただくより、皆様が食べたいものを選んでいただいた方が心置きなく参加できるということも併せてお伝えしております。

めんどくさい生き物です。すみません。もう塩(と酒)だけで大丈夫です。

こういったやりとりが事前にできる場合は特に不都合を覚えないのですが、一方的なお節介から、食べない食べられないことを『悪』と捉えられてしまう傾向も事実として存在します。
これは逆も然りで、好きなものだけを『正義』にしてしまい、行き過ぎると嫌いなものを『悪』とする傾向もあります。僕も昔はそうでした。特に音楽で飯を食うと意気込んでいた20代前半、デジタルを駆使しアナログの楽器を扱わない音楽を認めないというスタンスがありました。否定さえしていたくらいです。

例えば佐渡で過ごした少年時代、海産物は佐渡の宝ですから、当然のように食卓に並びます。それも贅沢に。かつ飽きるほどに。
僕の「食えない、食いたくない」と言う意見を押し退けて「食えっちゃ、うんめーのんに」という押しつけは多感な頃の感情に火をつけ、結果的に反抗期が訪れたようにも感じます。誇張ですが。

うまいかまずいかは、食ったことあるから判断しているわけで、僕はメカブの味噌汁(一例)は受け付けられなかったというだけのこと。大人たちがそっちが好きなら好きで別に全然OKだし、僕が食えないことが「悪い」ことのように言われる筋合いもないわけです。
ところが一部、激し目の人たちの中には「こんなうんめぇもんやっとるのんに食わんっちゃどいんだっちゃ(こんなに美味しいものをあげたのに食べないなんてなんということでしょう)」と憤る方も存在して、ご好意の延長線上とはいえ、僕個人の嗜好をとやかく言われる(否定される)こともありました。そういった方には未熟にも反抗という形で、人としても嫌いになっていってしまったように感じます。若気の至りです。

しかしそんな偏食の僕を多くの優しい大人たちは「視野を広くもて」と諭してくれるのでした。

よくあるのが「損をしている」といった方々のご意見。これは至極真っ当で、食に限らず、音楽に於いても、過去に繊維業界の大先輩から秋葉原系のアイドル集団を引き合いに出され「お前がロックじゃねぇとか言うのはわからんでもないけど、A○B48が売れてるっていう事実はそれだけ多くの人を幸せにしているってことなんじゃねぇの?だからあれを音楽じゃねぇって否定すんのは違うだろ」って言われ、鈍器で頭を殴られた感じでした。

そう、否定することないんです。

そういう人たちもいると理解することだけでよくて、自分の好き(正義)とは違う意見に対して、わざわざ否定的な意見を登場させることに違和感を感じていたのがこじれていた少年時代。行き場のないエネルギーが楽曲編成とちょっとした非行、そして否定的意見を自分に向けてくる大人たちへの反抗に変わっていくことで、不要な対立を自分から起こしていたのだと思い知りました。もちろんまだまだ未熟なので、僕もそういう面がなくなったかと言われれば、そうでもありません。今後も精進していく所存でございます。

さて本題ですが、昨今世界的なSDGsの目標達成に対して、僕が従事するこの繊維業界でも各社様々な意思表明をされています。
SDGs17個の目標自体、一個も反対するところがないので僕はSDGsを否定しません。またそれに呼応して取り組みを意思表明されている方々に対しても一歳否定的な気持ちはなく、むしろお取り組みを表明されるほどの意気込みと覚悟を感じるので、どんどんと推し進めていっていただきたいと思うくらいです。

一方で先述の好き嫌いの正義が絡みあって、意思表明されているご自身の取り組みを正当化するために、本当に『悪』と言い切れるのかどうかわからないものを対比することが増えてきたように感じています。

大量生産は悪なのか

よく言われる大量生産の裏にある悲劇、これは実際問題としてあるのはご周知の通りかと思います。これを解決すべく受注生産などを提唱する動きも多く見受けられます。
これだけ趣味嗜好が多様化している世界です。たくさんの人の(好きかもしれない)ところを切り取ってたくさんの消費を促すやり方を『悪』とし対比することで、勝ち筋を見出そうとしている方々も多くいらっしゃいます。

もし仮に、大規模生産販売を生業としている企業が、(それもそうだな)となり、いきなり全ての生産を打ち切って流通を止めた時、大量生産の裏側の闇は解決するのでしょうか?
少ないお小遣いでファッションを楽しむための入り口を安価で入りやすいものにしているプチプラファッションは、同時に、生産や流通、販売に従事している人口もそれ相当に多いです。これらの人たちは産業消失と同時に違う職業にありつくほどに勉学を身につけ、今より高待遇な働き口を見つけられる環境なのでしょうか?

本来であれば、従事させる側が悲劇や闇を作り出さないような仕組みを敷くのが筋のはずです。大量生産自体が悪だとは僕個人としては到底思えないのです。

知り合いの方が僕によく言います。「賢かったら繊維産業なんか来ない」と。そうかもしれません。同時に、これは世界的に見ても同じ状況で、しっかりと教育が受けられて知恵や知識がついた人たちはおそらく、繊維産業を生業として選択することは少ないかもしれません。にもかかわらず、たくさんの繊維産業従事者がいるのは、よっぽど繊維が好きか、ありつける職がそれくらいだったという可能性もあるのではないでしょうか。

そう考えると、大量生産を終わらせることで貧困が解消するというロジックは成立しないように思います。これはあくまで僕個人の意見なので、そういう論を提唱されている方にはそれなりの正義がおありかと思います。なので否定はしませんが、大量生産に対して一方的な悪をしつらえるのは従事している人たちにとっては「なんでやねん」となりやすいのではないかと思うのです。

繊維産業の環境負荷

これもないと言い切れません(むしろある)。というより、繊維産業単体で切り取ることもナンセンスかと思いますが、あえて繊維産業内で言われる環境負荷で起こっている好き嫌いの正義を見てみたいと思います。

コットンの水問題、ポリエステルのマイクロプラスチック問題、動物繊維の生物倫理問題など、例をあげればキリがないです。ただそれらを悪としている意見は、生産側のネガティブ面をだけを取り上げて産業を圧迫してきます。
適宜環境負荷の少ない選択肢を提示していくのは、生産者の努めかと思いますが、一方で自身の取り扱い商品を良く見せるために、上記問題を取り上げ、曖昧な情報で悪者にしている方々も散見されるようになってきました。
前項の大量生産にもかかるところですが、下記のリンクもご参照いただけると幸いです。

もともと人類の生活をより快適にするため、先人たちが叡智を集結させ成り立ってきた産業に、よくわからんけど悪いことだからとりあえず中指を立てることがイケてる的なノリでとにかくやめさせろみたいな動きは、僕の若かりし頃のように、不用意な対立を生むきっかけになってしまいかねないので、自分たちの意見を聞いてもらいたいのであれば、反対側にいる人たちの正義にも耳を傾ける必要があるのではないかと思うのです。要は、もうちょい落ち着いて話し合おうぜって気持ちです。

SDGsがわかりません

地球環境汚染をどんどんしろ!という主張をしたいわけではありません。色々と書いてきて「結局お前はどっちやねん」というツッコミも頂戴しそうな空気ですが。偏った意見だけの正義が立ちだすと、どちらかに歪みが入ってしまう状況ですので、片一方だけ裁くことなどできっこないのです。僕は。

会社として声高に環境意識商材を取り扱おうという意思表明をされているところで起こる、上昇コストを価格反映できずに受注元へヘッジしている現実などを見かけるたびに、環境を守る選択の先に潰れてしまう人々の営みがあると思うと、その人たちは見捨てても良いのか?という疑問が僕の中でいつも持ち上がるのです。
一方で「環境保全のためにこれだけのことをやっているので、価格はこうなります」と市場価格に反映したところで、消費が鈍ってしまう恐れも同時に孕んでいる供給側のリスクも理解はできます。乱立し出している『なんちゃってサスティナブルな素材を使ってます系のブランド』が日本国内に於いてはなかなか苦戦している事実を見ても、その切り口だけでは従事者を守れないということがわかります。訴求するフィールドを変えてみたらまた違う結果があるかもしれませんが、取り急ぎ、うまく行ってるケースはあまり出会うことはありません。

取り組む姿勢は大いに結構。一方でそれで苦しむところが出てくる場合、そこは自己責任論になってしまうのは果たしてどうなのか、といったところです。

以上のところを踏まえて、好き嫌いの正義まで絡んでくると、これ一層の対立構造ができあがり、結果的に何もうまくいかなかったよねっていうことになりかねないので、迂闊に「コレだ!」なんて言えないんすよね。この意気地なしは。

で、冒頭の、昔の僕の偏った態度に対する優しい大人たちの助言をもとに考えてみると、それもそうだね、でもこういうことも起こっちゃうよね、じゃあどうしていこうか、というスタンスを取らざるをえないし、なんならそういう先に出てくる着地点があるなら、その方がいいかもねってくらいなので、偏った正義で懐柔されそうな時は、申し訳ないのですが、線を引かせて対応させていただいている状況であります。

強い主張も良いと思うんですよ、それこそ個人の(または個別組織の)嗜好や思想の問題なので、外野がとやかく言うことじゃないですから。
ただ、その強い主張を立たせるために、不用意に、かつ不確かな情報で相手側を貶めるような必要はあるのだろうか、ということが言いたいのです。

じゃその偏った正義を声高に主張するそのツールとして使用される端末や機器は、環境負荷ないんすかね。とかね。まぁそういうの言い出したら結局、「じゃ人類って地球に要らんよね」っていう極論まで行くので、「全てやめてしまえ!」的な着地点より、折り合いつけて考えていこうぜっていう姿勢を見せる方が、双方納得しやすい状態になっていくのではないかななんてぼんやりと考えております。しらんけど。

じゃお前どうすんのよ

そろそろそういう気持ちになってきますよね。イライラする文書でさーせん。
僕、またulcloworksとしては、ある一定のスタンスがあります。よく聞かれるんですよ、こんな零細企業なんかの意見を聞いてくださるなんて本当にありがたいことです。
それくらい、世間的には会社が社会に対する責任を果たすべき意思表示を求めているということなのでしょうか、よくわかりませんが。

僕らは相変わらず初志貫徹

ultimate=究極の
clothing=衣類を
works=作る

そんな会社でございます。
 ちょっと宣伝っぽくなって恐縮ですが、詳しくはこちらをご覧いただければ幸いです。

(現時点でプロジェクトの支援募集は終了しております。たくさんのご支援ありがとうございました。)

要約すると、ここでも書いている通り『究極の衣類を作る』とは、最高級原料を使うことでも、それらを至高の品として訴求することでもなく、お客様や仕入先様、関わってくださる皆様にとって喜んでいただける服作りを心がけております。

その延長で、故郷である佐渡ヶ島に繊維産業を移植し、原材料から一気通貫で生産する現場を自分たちでこしらえ、お客様の生産にお役立ていただいたり、または服がどうやってできるかを農工商一気通貫で見学できるような施設を目指したり、ゆくゆくは出来上がる商品が佐渡島内の自給に役立てば嬉しいし、さらにいえばその商品たちが島外、国外まで販売できるようになれば最高だな、という気持ちで『ulcloworks SADOBASE』を立ち上げました。

気持ちというか、やっていきます。というか、やり出してます。

ここまででは一個も答えになってないかもしれませんが、わざわざ環境意識してますなんて主張などせずに、自分たちに出来る範囲で、粛々とやれば良いことですし、同時に経済も微力ながら貢献できれば、ふわっとしてますが「無理なくやっていくことが持続可能な状態になるのではないか」という僕らなりの答えです。

それを大層に「やばいから救わなければ!」みたいな強迫観念ではなく、おもしろおかしく、楽しくかっこよくやっていきたいな、という思いでいっぱいです。楽しくなきゃ、できないですしね。

もちろんお仕事ですし、楽ではないです。大企業でもないので、ここだけやっといてね、そしたらお給料払いますよってほど余裕があるわけでもありません。が、こんな思いに賛同してくださる稀有な方いらっしゃいましたら、ulcloworks SADOBASEの仲間になってくれませんか?

ここまで長々と書いて大変恐縮なのですが、ご応募したいという方、下記リンクもご参照いただけましたら幸いです。SADOBASEで何やるかっていうスタートラインを書いた去年度の募集記事です。

ご興味いただけましたら、下記リンクよりご応募ください。興味あるなぁっていうレベルの方でも構いません。お話しましょう。

ここまで読んでくださりありがとうございます。未来の仲間になってくれる方、お待ちしております。

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